幸福の檻 9
行方不明になっていた東方司令部司令官は、一週間後にひょっこりと帰ってきた。
何事もなかったかのように自分の足で自分の家に帰ってきた。
どこか怪我をしているだとか、やつれていただとか、そういうことは一切なく、まるで散歩から帰ってきたかのような自然さで仕事に復帰し、いつもの生活を再び始めたのだった。
彼、ロイ・マスタング曰く、
「なんだか記憶喪失だったみたいなんだ。1週間どこで何をしていたのか思い出せん。まあ、こうして記憶も戻りここに帰ってこれたんだからよしとしようではないか。覚えていないから皆も詮索しないでくれ。それから私の不在の間、迷惑をかけた。すまなかった」
「大佐がご無事にお戻りになられて良かったです」
ロイの腹心のリザ・ホークアイ中尉は、安堵の表情でただそれだけを言った。その目元は少し赤くなっていた。
「大佐がいない時のほうが事務仕事がむしろはかどっていましたよ」
「でも大佐がいらっしゃらないと司令部に華がないっていうか、寂しかったですよね」
「やはりマスタング大佐あっての司令部ですな」
ブレダ少尉やフュリー曹長、ファルマン准尉はロイの無事に、次々に喜びの声を上げた。その中でハボック少尉だけが、大きな身体を壁にもたせ掛けたまま、ロイを囲むようにして立っている仲間の輪から一歩下がった場所で無言で立っていた。その目は何かを探るように上司の顔を見つめている。
記憶喪失だった1週間。
その空白。
ハボックとロイが2人で過ごした日々。
「……でしたよね。ハボック少尉もそう思いませんか」
不意に会話に自分の名前が出てきてハボックは我に返った。
「へ?」
皆の視線が集まる。ロイもこちらを向いた。視線が合う。
黒い夜の闇を思わせる理知的な光を宿す瞳。
甘い檻の中で共に過ごしたあのときの、すがるような、甘えるような色はもうどこにも見い出せない。あれは自分の願望が見せた都合のいい幻だったのだろうか。
「……ええと、すいません。話聞いてませんでした」
頭の後ろをばりばり掻きながらハボックは決まり悪げにロイから視線を外した。
「ハボック少尉、どうしたんですか」
「なあにぼうっとしてんだよ」
ブレダに背中を叩かれた。それにハボックは苦笑で答えた。
「はは…。でも大佐が帰ってきてくれてホントに良かったです。不在だった間にたまった仕事、ちゃんと急いで片付けてくださいね。俺たち残業続きで大変だったんですから、久しぶりに定時で帰らせてください。ゆっくりしたいっスもん」
肩をすくめおどけた仕草をして言った。心にもないことを笑顔で言える自分に嫌悪を感じた。だが皆の前ではいつもの自分を演じなくてはならない。
ハボックの言葉にロイは笑った。
「善処しよう。だが私も1週間の記憶が抜けているせいか、どうもいつもの調子ではなくてな。心身ともに落ち着かないというか…、まあ少しは大目に見てくれると嬉しいのだがね」
そんなふうに言っておけば堂々とサボってもいいとか思ってませんか、と部下にツッこまれてロイはまた笑った。どうやら図星らしかった。
久しぶりに司令部に明るい笑い声が戻ってきた。
しかしハボックだけは独りそれになじめずにいた。
昨夜彼が別れ際に言った言葉がずっと心に引っかかっていた。
「ハボック少尉。私は記憶を失っていた。記憶がなかった間のことは何も覚えていない。ふと気づくと見知らぬ場所にいて、私は独りでここに帰ってきた。……そいうことで、いいな?」
ロイと別れたあと、ハボックはその言葉が気になって仕方がなかった。それの意味するところを考え続け、結局眠れないまま朝を迎えた。
彼に聞きたいことが山ほどある。
本当は今すぐにでも詰め寄って、彼に真意を問いただしたい。
本当にこの1週間のことを覚えていないのだろうか。
ならばなぜ共にいた自分に何もきかないのだろうか。
わからない。
彼の考えていることがまるで分からなかった。
なぜ、そんなふうに普段通りに笑っていられるのだろう……?
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20060529up