幸福の檻 10






 記憶をなくしたロイ・マスタングが1週間どこにいて何をしていたのか。

 彼が職場に復帰した当初は、部下のブレダやフュリーが休憩時間にそれを話題にして盛り上がっていたが、それも日にちがたつにつれて口にしなくなった。
 急がしい毎日、いつもの職場。
 繰り返される日常に、ロイがいなかった日々のことを皆は自然に意識しないようになっていった。



 ロイはいつもと変わらない。
 記憶がなかった1週間のことなんて気にしていない様子だった。
 まるで自分がどこで何をしていたのかなんて興味がないようだった。
 少なくともジャン・ハボックにはそういうふうに見えた。
 だが、そんなことなんてあるのだろうか。
 誰だってそんなに長い間、自分がどんな風に過ごしていたのか分からないなんてことがあったとしたら、気になって気になって仕方がないのではないかと思う。
 つまりハボックが思うに、ロイは記憶喪失だった間の、あの自分と過ごした1週間を覚えているのではないかということだ。
 よく以前の記憶が戻ると記憶を失っていた間のことをきれいさっぱり忘れてしまう、という事例があるらしいが、ロイはおそらく全てを覚えているのだ。だからそのことを知りたがらないし、知ろうというアクションも起こさない。
 そして他人にそのことを触れて欲しくないのだろう。

(俺と一緒に過ごしたことなんて忘れたいんだろうな)

 ハボックは内心で自嘲する。
 記憶がなかったとはいえ、部下にまんまと騙されて身体をいいようにされていたなんて、彼にしてみればはらわたが煮えくり返るくらい屈辱的で憤慨ものだろう。

(なのにあの人は俺に何も言わない。なぜだ)

 ロイはハボックをののしり、蔑むことすらしないのだ。
 深夜にロイの自宅前で別れてからもう何日もたった。
 ロイの執務室で、送迎の車の中で、幾度となくハボックはロイと2人きりになる機会があった。しかし彼はあの日々のことを1度も口にはしなかった。ハボックもあえてその話題を自分から切り出そうとはしなかった。

(怖かったのかもしれない)

 ロイが以前のように自分に接してくれるのなら、彼が忘れたふりをしてくれているほうが都合がいいのかもしれないという打算。下手に話をむしかえして、彼が怒りハボックを軽蔑し、自分から遠ざけようとするのではないか。そんな怯えがあった。

(俺はもう多くを望まない。大佐の側にいて、彼の手助けをすることが出来ればそれでいいんだ)

 ロイが記憶を失うあの日まで、ハボックの中ではまだロイに対する気持ちは曖昧でどこか半信半疑なものだった。
 確かにロイ・マスタングはハボックにとって気になる存在だった。
 でも好きだとか愛しているだとか、これまで同性に対して抱いたこともない感情を本当にロイに感じているのか自分でもよく分からなかったのだ。

 彼をこの腕で抱きしめて、逃げられないようにしたらどんな感じだろう。
 彼のまぶたに、頬に、唇に触れたら。

 漠然と、そんなことを考え想像するだけだった。
 しかしあの1週間がきっかけになり、ハボックの中で、想いは確かなものへと変化した。

 恥ずかしがりやで、でも真っ直ぐにハボックの胸に飛び込んできたロイ。少しあまえんぼうで照れながらも身体をすり寄せてきた。恋人として過ごした短くも甘い日々。色々な貌をロイは見せてくれた。

 本当は忘れられない。
 抱きしめたら戸惑いながらも抱きしめ返してくれた彼の白い腕。
 彼の温かく優しいからだ。

(本当は忘れたくない)

 できるならば、許されるならばもう1度、この腕の中に彼を抱きしめたいけれど。それができないのなら、せめて彼のそばに。

 彼を、ロイ・マスタングを愛している。

(俺の恋人は記憶の中に存在している。それで充分じゃないか)

 ハボックはそう自分を納得させようとした。出来ると思っていた。

 その日、ロイの口からその言葉を聞くまでは。





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20060531up