幸福の檻 8






 ほのかな青白い月の光が窓辺に立つロイを包んでいた。名前を呼ぶとゆっくりとこちらに振り向く。視線が合った。
 ほら、こちらに来てください、身体が冷えちまう。そう言って彼に伸ばそうとした手。だがロイのあまりに静かな瞳の色に気づいてハボックはためらった。
 先程までの甘い時間の余韻はもうどこにもない。

「ハボック、もう終わりだ」

 冷たい、しかし強い響きを持ったロイの声がハボックへと届いた。
「ロイ……?」
「茶番は終わりだと言ったんだ、ハボック少尉」
「! あんた、記憶が戻って……!?」
 一気に眠気が吹き飛んだ。
 ハボックは慌ててベッドから抜け出した。
「大佐!記憶が戻ったんですか!?自分のことも分かります?!俺のことも…」
 ロイは小さく笑った。
「……大佐?」
「分かる。……少尉、どうやら私はお前に大分世話になったようだな。すまなかった」
「え、あ…、はあ、まあ……」
 後ろめたさに言いよどんだ。なんと応えたらいいのか分からない。自分は彼に嘘をつき体の関係まで持った。ロイはハボックと共に生活していた、記憶を失っていた間のことを覚えていて、そんな風に言っているのだろうか。
「私はこれから自宅に帰ろうと思う。明日から仕事に戻る。不在の間みんなに迷惑をかけたのではないか。謝らなくてはな」
 ロイはハボックから視線を外し、窓の外を見やりながら淡々と言葉をつなげた。
 まるで、なんでもなかったかのように。
「大佐、あの、大丈夫なんですか……?」
「何がだ」
 再び視線が合う。感情は読み取れなかった。
「記憶が戻った後遺症で頭が痛いとか、体調がすぐれないとか、そういうのは……」
「なんともない。むしろ頭がやけに冴えて気持ちがいいくらいだ」
「そう……ですか?」
 なんとなく釈然としない。
 ロイは、この現状に疑問を全く持たないのか?
「すまないがハボック、私に合いそうな服を用意してくれないか。このままでは帰れない。……ああ、ここに来たときに確か私は軍服を着ていたな。どこにある?」
 窓を離れ、クロゼットの扉をさっさと開こうとするロイをハボックは慌てて制した。
「ちょ、待っててください。今出しますから」
 裸のままハボックはクロゼットに頭を突っ込んだ。ロイはその彼の背中を一瞬切なげに目を細めて見つめた。そこには自分が爪で刻んだ想いの残骸がまだ生々しく残っていた。



 家まで送ります、護衛官の務めですから。そう言われてしまえば、ロイに断ることは出来なかった。

 寝静まった住宅街の路地を2人は歩いていた。
 会話はない。ただひんやりとした空気が前へ足を進めるたびに互いの身体から体温を少しずつ奪っていっているような気がした。

 もうすぐロイの家についてしまう。
 ハボックには話したいことがたくさんあった。訊きたい。なぜ何も自分に問いたださないのか。
 つい数時間前には、自分たちは身体を重ねぬくもりを分かち合っていた。
 それはロイの身体に普段感じることのない違和感として残っているはずだ。なのになぜ何も言わないのだろう。彼にとってそんなことは気にとめるほどのことでもないというのだろうか。
 わからない。
 ちらりと横を歩く上司の顔を見下ろした。白いおもては整いすぎていて一見冷たさを感じる。
 記憶をなくし、恋人として共に過ごしたこの1週間の彼は…、自分に不器用ながらも甘えてきた彼はもうどこにもいないのだろうか。


 繊細な飾りのついた黒い門扉が見えてきた。一人で住むには少々贅沢な広さと部屋数を持つマスタング邸だ。
 ロイは足を止めた。
「……ここからは私ひとりでいい」
「門の前まで送ります」
「いや、あの角の向こうに停まっている車を見ろ。軍人がうちを見張っている。中尉やお前たちが私の失踪を心配してやらせているのだろう?お前が私と一緒にあれの前に出て行けば後で色々説明が面倒だ」
「大佐、それは……」
 ロイは自分の肩に掛かっていたファーのついた黒いジャケットを右手でそっと肩から外した。ハボックが家を出るときに掛けてくれた、彼の匂いが染み付いたもの。1週間の間、ずっと包まれていた匂いだった。それを彼の手の中に戻した。胸がツキンと痛んだけれど、ロイは気づかないふりをした。
 ジャケットを受け取ったハボックの顔を見上げると、彼はなんとも言えない複雑な表情をしていた。

 もう、夢は終わったのだ。

「ハボック少尉。私は記憶を失っていた。記憶がなかった間のことは何も覚えていない。ふと気づくと見知らぬ場所にいて、私は独りでここに帰ってきた。……そいうことで、いいな?」

 ハボックは目を見開いた。
「たい……っ」
「明日、司令部で会おう。見送りご苦労だった、ハボック少尉」
 ためらう気持ちを断ち切る強さで、ロイはきびすを返しハボックに背を向けた。
 背中に痛いほどの視線を感じた。あの晴れた空を思わせる綺麗な青が私を見つめているのだろう。
 一歩、また一歩と足を踏み出す。
 まもなく張り込んでいた軍人が駆け寄ってくるだろう。

 振り返るわけにはいかなかった。





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20060516up