幸福の檻 7






 愛し、愛される喜び。

 そんなものを自分が求めてはいけないと思った。

 かつて、人をたくさん殺した。

 血塗られた、手。
 この手で誰かを抱きしめてはいけないと思った。

 彼らは死んでいった。
 この手が彼らの未来を、断ち切った。
 愛するものとともに生きる喜びやともに感じる悲しみ、やがて育まれるであろう小さな命の可能性を、奪い取った。街角に響いていた子供たちの笑い声を消した。信仰に従い穏やかに暮らしていた老人のささやかな夢を打ち砕いた。

 私はたくさんの人を殺した。

 罪というものに色があるとすれば何色なのだろう。
 私の全身は罪に汚れている。それは魂にまで侵食している。どうしようもない。
 いくらぬぐっても時がたってもそれは褪せることはない。
 鮮やかに私を汚し、縛り続けている。

 こんな私が誰かを愛してはいけない。
 こんな私を誰かが愛してくれるはずがない。

 だから、私は今まで独りで生きてきた。
 友と呼べる者はいる。
 信頼できる部下もいる。
 だが、誰かを深く愛しはしなかった。

 そしてこれからも独りで生きていくのだ。
 誰かをもし愛したとしても、それは自分の胸の中で死んでゆく想い。
 告げようとは思わない。
 応えてもらおうとは思わない。

 誰かを愛し、誰かに愛される喜びなんて一生知らないままでいいと思っていた。
 知ってはならないと思っていたのに。


 偽り?戯れ?
 それでもいい。彼が何を考えているのかなんて全然分からない。
 でも今だけ。
 せめて、この夜が終わるまで。

 夢の中に。






 ふと、目が覚めた。
 少し開いたカーテンから月明かりが差し込んで部屋の輪郭を浮かび上がらせている。
 頭上のすぐ側で男の寝息が聞こえる。
 たくましい裸の胸に寄り添うようにしていたロイは、静かに頭を持ち上げ、自分に腕枕をして眠っているハボックの顔を覗き込んだ。
 いつも煙草をくわえている唇の右端が、少し緩んで開いている。
 金色なのであまり目立たないが、幾分伸びた顎のひげ。指先で触ったらきっとざらざらする。
 垂れた目元。割と長いまつげ。通った鼻筋。少しうらやましい。
「…………」
 ロイは触れるか触れないかのキスをハボックの唇にした。
 そして寂しげに視線を落とす。


(俺とあんたは恋人同士だったんですよ。あんたは俺を、愛してた)


 同棲生活を始めてから今日でちょうど1週間たった。
 この狭くても幸せがつまった部屋で、彼のことだけを考え、食事を作り、帰りを待った。洗濯だって掃除だってした。
 すべて彼のためにだ。

 ロイはゆっくりとハボックから身体を離すと、ひんやりとする板張りの床に足を下ろした。近くに落ちていたシャツを拾うと袖を通す。まだ裸でうろうろできるほどには気温が上がってきていない季節だった。
 はだしのまま窓辺に近づいた。
 空を見上げると雲にかかって半分隠れた月が見えた。

 愛しい人との、幸せな時間。
 恋人だという彼との優しい時間。
 今夜も彼は自分を抱いた。
 あまったるい時間を彼と共有した。

 この身体に刻み付けられたたくさんの愛撫や快感、想いをすべて覚えておこう。
 彼にもらった幸せを全部忘れないでおこう。

「……た、いさ……?」
 隣にあったぬくもりが消えてハボックが目を覚ましたようだった。習性でついロイを階級で呼んでしまったことに気づいて、彼は眉をしかめた。そして頭をがしがしと掻きながらベッドの上で身体を起こした。
「……ロイ、どうしたんですか…。眠れませんか……?」

 ロイは静かにハボックの目を見つめ返した。
 空の色を映したような綺麗な色の瞳。だが今は薄闇がそれを濁らせている。

「ロイ、そんな格好じゃ風邪ひきます。こっちに戻ってきてくだ……」
「………ハボック」
 声は、震えていないだろうか。
 視線は、おびえていないだろうか。


 夢は、いつかは覚めるものだと知っている。





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