幸福の檻 6






 もうずっと言いようのない違和感を感じている。



 記憶をなくしたロイ・マスタング。

 記憶をなくす前とあととでは、彼の何かが違っているのだろうかとか。
 そんなことを考えるようになった。

 記憶のないロイ・マスタングが本物だというのなら、記憶のない彼は。

(今俺の家にいる彼は本当のロイ・マスタングじゃないんだろうか)

 この薄汚れたアパートメントで、自分の帰りをいつも待っていてくれる、いとしい人。
 キスをして、恥ずかしそうに笑い、抱きついてくる彼が。

(俺を微塵にも疑わずに)


 記憶を失う前の彼は恋人との時間をどのように過ごしていたのだろう。
 そもそも、彼には本当に恋人と呼べるような付き合いをしている女性がいたのだろうか。
 噂はよく聞いた。いつどこぞかの令嬢とデートをしていただの、誰々に告白されただのと。
 しかし決まった相手がいるという話は聞いたことがなかった。
 彼の私生活のことは全然知らなかった。

 ここ数日一緒に暮らして彼のことをひとつひとつと知るうちに、彼のことをもっともっと大好きになっていく自分を自覚していた。だが自分が好きになっていく彼はつくりものの彼、つまり「虚像」なのかもしれないと思う自分もいて。


 だって、もし記憶を失う前の彼ならば。

 自分にそんなふうに笑いかけたりはしないだろう。
 そんな優しい言葉は言わないだろう。
 なにより、自分を受け入れたりはしない。
 あの、ロイ・マスタングが男の自分を受け入れるはずなんて、万が一にもない。


 彼の記憶はいつ戻るのだろう。

(戻ったら、俺、大佐に殺されっかな)

 今日家に帰ったらもう戻ってるかもしれない。可能性はゼロではない。

 それとも永遠に戻らない?
 戻らなければずっと一緒にいられるんだろうか。彼をあの狭い場所に閉じ込めて?
 それより彼をつれてどこか遠くへ、誰も知らない場所で誰にも邪魔されずに生きようか。
 逃げて…、逃げるのか?何から?

(現実から目を背けて偽りの時間をこのままずっと?)




「ふ…はははは」
 ハボックは自分のあまりの陳腐な想像に自嘲した。
 隣のデスクで書類に向かっていた同僚のハイマンス・ブレダが、胡乱げな視線をよこした。
「ハボック。突然笑うなよ。気持ちわりィ……」
「はは、悪いな。ちょっとニコチン切れかも」
「ずっと手ぇ止まってたぞ。疲れてんじゃねえのか。大佐が帰ってくるまでの辛抱だ。俺たちがふんばるしかねえんだし、もう少し頑張ろうぜ」
「ふ…くくくく」
「おいおい、なんだよハボック。ついに頭イっちまったか?お前少し休め」
 ブレダはいいやつだ。俺の親友だ。
 俺はそんなヤツを毎日平気な顔をして裏切っている。

(俺は疲れてんのかな)

 もうずっと違和感を感じている。
 いとしい人をこの腕に抱ける幸せをかみ締めながら、どこか不安定な自分を隠しきれない。
 迷い始めている自分がいる。
 誰にだって、自分にだって分かることだ。このままでいい訳がないのだ。

 でも。


 あの人が笑うから。
 必死に自分にしがみついてくるから。


 もうどこにも動けなくなってしまったんだ。





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