幸福の檻 4
少し色あせた金色の髪。
目元の垂れた碧い瞳。
笑うとすごく優しい顔になって、心があたたかくなる。
記憶のない自分を不安にさせないようにと、必要以上に気を遣ってくれているのがわかる。
恋人同士。
自分と彼が想いを交わす仲だったという。
この狭くて何もない部屋で二人で暮らしていたという。
「ただいま、ロイ」
そう言って彼はキスをひとつ額におとした。
私は、どういう顔で出迎えたらよいのか未だに分からないでいる。
彼は、私の恋人だというジャン・ハボックは、私の背に手を回して部屋に入るなり犬のように鼻をひくつかせた。
「ん?」
「あ…、すまない。まだにおうか…?さっき魚を焼いていて焦がしてしまった」
小さなテーブルの上に、慎ましやかに2人分の食事が用意されている。
その中に真っ黒に焦げた魚があった。
ハボックがキッチンに目をやると、コンロから少し離れた場所に本が数冊置いてある。昨日ロイの暇つぶしにと仕事の帰りに本屋に寄ってみつくろった、図鑑から今巷で話題になっているフィクションの小説本、はたまた「初めてでも出来る今夜のおかず」(ロイのリクエスト)まで、様々なジャンルの本だった。
「本を読むのに夢中になっちゃいました?」
ロイはうつむいて少し唇をとがらせた。
「……魚がなかなか焼けないから暇だったんだ」
言い訳が子供っぽくてかわいくて、ハボックは身をかがめてその口の端にくちづけた。
「あんたが俺のために作ってくれたんですから、俺はどんなもんでも嬉しいです。ありがとうございます」
ロイは顔を上げられなかった。自分の顔が耳まで赤くなっているのが分かったからだ。
この男は自分を甘やかしすぎている。そう思った。
食事後、汚れた皿はハボックが洗ってくれた。居候なのだからせめて家事くらいは自分にさせてくれと初日にロイは自分から言ったのだが、ハボックは「あんまりあんた家事得意じゃなかったし、俺がほとんどやってたんで」と言って、やんわりとロイから家事を遠ざけてしまうのだった。
確かに自分は料理も掃除も洗濯も得意じゃないのだが。
(明日こそ、せめて晩御飯ぐらいはちゃんと作ろう)
皿を洗うハボックにすすめられるまま先にシャワーを浴びていたロイは、そう決意するのだった。
ロイがシャワーを終えて出ると、ハボックは一人がけの小さなソファにうずもれるようにして一服しているところだった。長い足をもてあますようにして、色あせたジーンズから出た素足がソファから飛び出している。
彼はぼうっとした様子で煙草の煙の行方を見るともなしに追っている。その横顔には疲れが見て取れた。
(私が彼を疲れさせているのではないだろうか)
そう考えてしまったとき、不意にロイは怖くなった。
「……シャワー、借りたぞ」
かける声も小さくなってしまう。
私が彼に無理をさせているんじゃないだろうか。
「あ、早かったですね。ちゃんとあったかいの、浴びてきました?」
「あ、ああ」
立ち上がってハボックがこちらにやってくる。ロイが持っていたバスタオルを手に取ると、濡れてまだしずくをたらしているロイの髪を優しく拭き始めた。
「ホントだ。あんたほくほくしてますね。ああ、俺が蹴ってできちまったタンコブ、だいぶ目立たなくなってきましたよ」
「……あれは本当にしゃれにならないくらいに痛かった……」
「はは。すみませんでしたって、何度も謝ってるじゃないですか。ほら、髪を早く乾かして身体が冷えないうちにベッドに入ってくださいね」
「子供ではない。そんなことは分かっている。そんなことより、お前は……」
ロイは言いよどんだ。
この笑顔が偽りのものだとは思わないけれど。
「なんですか?」
「…………」
この3日間、ずっと不思議に思っていたこと。
彼と私が恋人同士であるというのならば、なぜ。
「どうしたんですか?ロイ?」
「……お前もシャワーを浴びてこい。明日も早いのだろう。早く寝よう」
喉元まででかかった言葉を、ロイは押し込めた。
「そうですね。あ、俺が出てくるの待ってなくてもいいっすから。眠かったら先に寝ちゃっててくださいね」
「きょ、今日も…先に寝ていいのか?」
「? いいですよ? だって俺待ってても退屈でしょう」
「…でも……」
「?」
ロイがなにやら悩んでいるがハボックには理由が分からない。
「…………」
そしてとうとうロイはうつむいたまま黙ってしまった。
「ロイ…?」
さっきからロイの様子が少しおかしい。
ロイの表情を知りたくて背中をかがめ顔を覗き込もうとしたら、勢いよく彼の頭が上がった。
ハボックは自慢の反射神経で何とかかわすことが出来たが、あやうくロイの頭が顎に直撃するところだった。
「わ、ちょ、いきなりびっくり……、」
「待っているぞ!」
ほとんど叫ぶようにロイが言った。
「へ?」
「お前が、出てくるまで、寝ないで待っているから、だから……っ」
最初はしっかりとした口調だったが、風船がしぼむようにだんだん語尾が小さくなり、最後には聞き取れないくらいになる。それとともにロイの顔が真っ赤になっていった。
だが、それでも強い視線で見つめ返してくる。
「だから?」
「だから…、その、あれだ。この部屋の主はお前なのだから、そのお前を差し置いて私が先に寝るのはなんだか変だと思うんだ」
「……別に変だとは思いませんけど」
「だが私たちはこ、こ……っ」
「こ、こ?」
「こ、恋人同士なんじゃないのか!」
ゆでだこの様に耳まで真っ赤にしたロイは隣の部屋にまで届きそうなほどの声量で言った。
ハボックは沈黙した。
「恋人の記憶がないなんて、お前がそれでどんな気持ちでいるのかなんて私には分からないが、お前は優しくて私をものすごく気遣ってくれて……、だからお前がいてくれて良かったと思ってる。とても助かっているし、嬉しい。だがお前は……」
「ロイ……」
「お前はそんな私の相手をするのに、すごく疲れるんじゃないのか?私はお前をいつもひどく傷つけているんじゃないのか?」
「……そんなことありませんよ。俺はあんたと一緒にいられるんなら、それだけでいいんです」
ハボックはロイの見た目どおりに柔らかい赤くなった頬に優しく触れた。
こんなふうに彼に触れられる日が来るなんて、3日前までは思いもしなかった。
これ以上を望むなんて。
だが、ハボックのそんな心情を知るよしもないロイは、ハボックのために必死だった。
おそらくは彼に嫌われたくない一心だった。
「ジャ……、ジャン」
自分のファーストネームを、ロイが恥ずかしそうに呼んだ。
そして記憶を失ってから、初めて名前を呼んでもらったことに気がついた。
頬に触れていた手の上に、ロイの手が重なる。
「ロイ」
ハボックの胸がどくりと脈打った。
ロイの熱が手のひらから流れ込んできて、ハボックの身体をも熱くする。
それを意識した途端に、ハボックは自分の気持ちが走り出したのが分かった。少しの罪悪感が留まらせていた、立ち入ってはいけない領域に押し出されたのを感じた。
その瞬間はっきりと分かった。
自分はロイ・マスタングのことが好きだということ。
愛しているということ。
たとえ自分と同じ男だとしてもこの心は、身体は紛れもなく彼に欲情しているということに。
引き寄せられるように二人の顔が近づいた。
羽のような、軽やかなキスを唇に。
同棲して3日目、唇にはじめて触れた。
少し離れて、視線が合う。
ロイはどこか照れながらも、華のように綺麗に微笑んだ。
ハボックはたまらない気持ちになって、彼の身体を腕の中に引き寄せ、力いっぱいに抱きしめた。
「たい……、ロイ、好きです」
「……お前はあたたかくて、気持ちいい。だから、嫌いでは、ない」
「ロイ…、ロイ…」
「もう一度、キスしてくれないか。ジャン」
求められるまま、もっと彼の心の深く、いとしい人に触れたくてその開かれた唇に唇を寄せた。
記憶喪失と嘘から始まったこの狭い空間での、秘め事。
偽りの幸福が、この檻の中で永遠に続くわけがないと分かっていても、今はただ。
このぬくもりに優しく抱かれてもいいんじゃないか。
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20060419UP