幸福の檻 35
東方司令部のある一室。
大きな窓からうららかな陽射しが部屋の中に降り注いでいる。
ともすれば瞼が落ちそうになる気持ちのいい暖かな日だった。
「………」
かぽ。かぽかぽ。
万年筆のキャップを開けたり閉めたりを繰り返している。
「大佐、手が動いておられないようですが」
芳ばしいにおいを立てる黒々とした液体が注がれたカップを部屋の中央にある上司のデスクの上に置きながら、ロイ・マスタングの優秀な部下の一人、リザ・ホークアイは、いつものように遠慮も何もないぴしゃりとした口調で言い放った。
ロイは椅子に深く背を預けながら、手の上で弄んでいた万年筆を大袈裟な仕草でホークアイに示した。
「手は動かしているつもりだがね」
かぽ、と筆記具のキャップを開けて見せた。
「子供のような減らず口は結構です」
「いつも厳しいな、中尉は」
ロイはデスクの横にうずたかく積まれた書類の山々にちらりと視線をやってから、深い溜息をつく。
「…こんなにまだ目を通さなければならない書類があるのかと思えば、やる気が落ちても仕方がないというものだろう。うんざりする。せめてちょっとずつ持ってきてくれると…」
「大佐がここ一週間ほど身を入れて対処してくださらないので、その量にまで膨らんだのです。昨日今日に持ち込まれて増えたものではありません」
「……そうだったかな?」
「私は嘘は申しません」
「………」
ロイは眉を寄せて口をへの字に曲げている。
空惚けているのか、それとも本気でホークアイの言葉を疑っているのかは分からなかった。
「大佐、何かございましたか?」
「? 何がだね」
「ここ数週間、大佐のご様子がいつもと違うように感じられましたので」
「そうか?」
ロイは微かに首をひねり笑った。
「何もないよ。気のせいじゃないかね。いつもとどう違うと?」
ホークアイは僅かに口を開き、しかし何か躊躇うような素振りで目を伏せてから頭を下げた。
「申し訳ありません。私の気のせいかもしれません」
彼女が言いよどむのは珍しい。ロイはそのことに興味を持った。
「何だね、中尉らしくもない。言いたいことを飲み込むなんて」
「いえ」
「いいから、言ってみたまえ」
ロイは万年筆を脇に置き、デスクの上に両肘をついて顎の下で両指を組み、自分の副官とも言うべき女性を見上げた。彼女は有能だ。人を見る目も状況判断も常に的確だ。そんな彼女の目に、ここ最近の自分は一体どういうふうに映っていたのだろうかと興味があった。
ホークアイはロイの視線を受けて、観念したように口を開いた。
「……それでは申し上げますが」
「ああ」
「心ここにあらずと言いますか…」
彼女は慎重に言葉を選んでいるように感じられた。
「…どこか浮かれていらっしゃるような気がいたしました」
「………」
ロイの表情が、笑顔が、その瞬間顔に張り付いたようにがらりと雰囲気を変えたような気がホークアイはした。やはり言ってはならないことを言ったのかもしれない、と後悔する。
「私の勘違いかもしれません。忘れてください」
「……私が浮かれていた?」
「いえ、ですから、気のせいかも…」
理由は分からないが、ロイの地雷を踏んでしまったのかもしれない。
この後、彼の機嫌がどちらに転ぶのかがホークアイには見極められなかった。仕事をやる気になる方向に動けばいいが、へそを曲げて更に怠ける方向に向かえば、目も当てられない事態がこの先待っているかもしれない。そうすれば提出期限内に決裁できない申請書や報告書などのとばっちりに、多くの関係者が迷惑をこうむることになるのだ。
やる気になれば才能も能力も十二分に備えている彼のこと、提出期限を守れないような無様な仕事をする男ではないが、時々本当に子供のような言い訳や動機を振りかざして、とんでもないことをしでかしたりもするのだった。それだけに侮れない。
ロイは口許を組んだ指の下に隠して、ホークアイに笑顔を向けた。
「そうだな。それは中尉の気のせいだろう。日々の雑務に無用なストレスを感じることこそあれ、浮かれるなどということは―――」
彼の目が笑っていない、とホークアイが感じたそのとき、不意にバタンとすごい勢いで何の前触れもなく執務室のドアが開いた。
何事かと二人の視線が扉に向かう。
「すんませーん大佐、今日の帰りは何時ごろ―――」
どかどかと無遠慮に大きな歩幅で室内に入ってくる長身の男に、ロイとホークアイの二人は目を丸くして絶句した。
「あ…っと、あれ…?」
数歩入ったところで、男はやっと部屋の中にいるのが、自分の上司ロイ・マスタング大佐ひとりだけではないことに気づいたらしい
男の浮かべていた笑顔がぴたりと止まり、本当に微かにだが口の端がぴくりと動いた。それにつられてくわえていた煙草も揺れる。
幾分垂れた目尻に出来た笑いジワがすうっと伸びた。
「…………あー…中尉もいたんスね……」
「……ええ」
ホークアイの視線が冷たく闖入者を見据えた。
「ええと…その…」
褪せた金色の後ろ髪を決まり悪そうにばりばりとかきながら、男はホークアイとロイとを忙しなく交互に見た。
男が助け舟を出してくれることを期待している相手のロイは、組んだ指の向こうに完全に顔を隠してしまって、触らぬ神にたたり無し、といった態度だ。
「ノックの音を聞いた気がしないのだけれど、私の気のせいかしら、ハボック少尉」
「…私も聞いていないぞ」
ホークアイの小言に続いて、ぼそりとロイが呟く。
闖入者の男、ジャン・ハボッ少尉は肩身が狭そうに上背のあるその身体を小さく丸めた。
「…あの…、ハイ、忘れました…」
「子供ではないのだから、忘れましたはないわね。下の者に示しがつかないから、それくらい日頃からちゃんとして頂戴」
「そうだぞ、ハボック少尉。ノックは基本中の基本だ。子供のしつけ以下だぞ」
「………」
ロイの追い討ちの言葉に、ハボックがうらめしそうな視線を送れば、顔を伏せたロイの表情は分からなかったが、その肩が微かに震えているのに気づいた。よくよく見れば組んだ彼の指の隙間から三日月形に引き上げられた口許が見えた。
どうやら声を殺してハボックの困っている様を笑っているらしい。
ハボックは、口の中でコンチクショウと唸った。ついいつもの気安さでロイを訪ねてしまった。まさかホークアイがいるだなんて思いもしなかった。明らかにハボックの失態だ。
ひとしきり笑い、顔を上げたロイと視線が合う。
今夜は――しばらくぶりに二人でゆっくりと過ごせる夜だ。あとで覚えてろよ、と八つ当たりのようにつれない恋人に心の中で誓ったのだった。
「だぁれも国軍大佐殿が徒歩でぶらぶらしながら帰宅中だなんて想像もしないでしょうねぇ」
「そうか? 私だって散歩ぐらいはするし、歩くのは嫌いではないぞ」
「そうですねぇ、よく職務中に司令部を抜け出してはぶらぶらしてますもんねぇ、護衛もつけずにホントにあちこち」
「息抜きにほんの少しだけだ」
「護衛してるこっちの身にもなってくださいよ。怒られるのは俺たち…というか俺なんですよ」
「ホークアイ中尉は心配症だからな」
「笑い事じゃありませんよ」
日付がもう少しで変わろうかという時間、一日の仕事を終え職場を出たロイとハボックの二人は、ハボックがよく行くという居酒屋で軽く呑んだ後、灯りが消えだした町の中を歩いていた。
ロイはほろ酔いで気分がいいのか、コートの裾にひらひらと空気を纏わりつかせながらハボックの一歩前を進んでいく。鼻歌を歌いだしそうなほどに足取りも軽やかだった。
ハボックはそんな彼の後姿を目を細めて見つめながら、上着の内ポケットから煙草を一本取り出して口の端に咥えた。
以前よりもロイとプライベートを共に過ごす時間が増えた。気持ちが完全に通じ合った、と言っていいのかどうかは分からないが、日がたつにつれ、どことなくロイの態度にハボックが感じていたぎこちなさや戸惑い、遠慮が消え、近頃では明るい表情を見せてくれるようになったと感じている。雰囲気が柔らかくなった。
前を歩くロイが今どんな顔をしているのか、ハボックには見えないが、きっと―――
「ん? 何か言ったか、ハボック」
何かを感じてか、ロイが振り返る。
「いいえ。何も言ってないですよ」
ハボックは笑い返した。ロイはどこか茶目っ気の滲む子供のような目で笑っている。
彼がこんな顔をするのだということを、ハボックはつい最近知った。きっと上司と部下という関係ではこの先ずっと見ることがかなわなかった、飾りのない、なんのてらいもない彼のありのままの姿なのだろう。
それを彼が自分に見せてくれることを、ハボックはこの上なく嬉しく感じている。
先を歩くロイが、すぐ目の前に迫った十字路を右に曲がろうとするのを見てハボックは声をかけた。
「ロイ、そこは曲がらないでもう少しだけ真っ直ぐ行きましょう」
ロイがぴたりと足を止めて振り向く。
「…往来で、名前を呼び捨てするんじゃない」
「いいじゃないですか。そのほうが外では自然ですよ。階級で呼ぶほうが通行人の注目を集めやすいと思いますけど、駄目ですか?」
「……」
ロイの白い頬が夜目でもうっすらと染まったのが分かった。
ハボックはロイに追いついて、その肩を抱いて歩き出す。
「…、ハボックっ!?」
闇を吸い込んだような艶やかな黒髪の間から覗く耳元に唇を寄せて囁いた。
「少し先に狭い路地があるんです。そこを行けばうちまで近道ですよ」
「は…」
「少しでも早く帰りたい」
ハボックはそう言うと少し頭を傾けてロイの顔を覗き込んだ。
「今夜は久しぶりなんで少しがっついちゃいそうなんですけど、いいですよね…?」
「……っ!!?」
ハボックが抱いた彼の肩に、面白いほどに分かりやすく緊張して力が入ったのが分かった。顔を真っ赤にして絶句している彼の頬に、ハボックは触れるだけのキスを素早く送り、にこりと微笑む。
ロイはもっとラブアフェアを楽しむようなクールで大人な余裕を持つ男だと、彼のことをただの上司の一人だと思っていた頃ハボックは思っていた。
それとも自分が主導権を握れずに振り回されるばかりの恋愛に慣れていないだけなのだろうか。
とにかく、そうやって自分の言動によって赤くなったり、時には青くなったりするロイをハボックは本当に可愛らしいと思う。反応が見たくて、つい意地悪をしたくなってしまうこともしばしばだが…こればかりは人に性格が悪いといわれてもやめられそうな気がしない。ロイがかわいいのだから仕方がない。
「俺はどうもしつけが子供以下らしいので、今夜はロイが俺をしつけてくださいね。全部言う通りにしますから」
「そ、それは一体どういう意味だ…っ」
昼間のホークアイを交えた会話のことをハボックが持ち出しているのだということは、ロイも気がついたらしい。
「今日はロイが言ってくれるまで動きませんよ。ロイの口から、いやらしいおねだりの言葉を聞けそるまではね。楽しみっすねえ」
「は、ハボック! 調子に乗るな! 誰がそんな…っ」
「あんまり大きな声出すと、ほら」
ハボックが肩を叩きながらロイに周囲を見るように促した。ロイは、はっとして慌てて口を噤んだ。ロイの大声に驚いた通行人が、二人に注目していた。ロイは居たたまれなくなって俯いた。
「さ、帰りましょう」
半ばロイを引きずるように彼の肩を押してハボックは再び歩き出す。近道の路地に入ったところで、ロイはぽつりと呟いた。
「…お前、本当に意地が悪いな」
ハボックは口端の煙草を揺らして笑った。
「今更でしょう、それこそ」
「意地が悪くて強引だ。こんなヤツだとは知らなかった」
「俺も大佐がこんなにかわいらしかったなんて知りませんでしたけどね。お互い様ですね」
「…そうだな」
二人の足が暗くて人気のない路地の半ばまで進んだ頃、どちらからともなく視線が合った。
ロイの手が伸びたのが先か。
ハボックの腕がロイの背中を引き寄せたのが先か。
二人の影が道の真ん中で重なる。
「、っ」
「…っ」
唇同士がぶつかるように始まったキスは、すぐに深くなり、ほどなくして糸を引きながら顔が離れた。
隙間なく強く抱き締めあう。
「…不本意だが、お前は人を甘やかすのがうまい。悔しいが、私はそれが嫌いではないよ」
「好きって素直に言ってくださいよ」
「…す、好き…ではないかと思う。たぶん」
「多分は余計です。俺も知れば知るほど、あんたが好きになって仕方がないですよ。諦めなくてよかった」
「ハボック…」
「帰りましょう、俺たちの家へ。あんたがぐずぐずになるくらい甘やかしてあげますから」
「…しつけは…勘弁して欲しいのだが」
「俺結構ネに持つタイプなんで」
「……」
ハボックのアパートメントに向けて歩き出す。
繋がれた手をロイは自分から力を入れて握り返した。
伝わってくる彼のぬくもりをいとしいと思う。
数日、ともすれば数週間数ヶ月に何度共に過ごせるかという、仕事が多忙な二人であるけれど、そうしてたまに一緒に過ごす時間は密度の濃い充実したものだった。
当初、心に自ら壁を作り自分の在り様をこうあるべきと長い間律していたロイには、幸せや安穏に易々と浸ることに戸惑い、罪悪感がどうしても目の前にちらついて仕方がなかったが、ハボックの部屋でリラックスして過ごす時間は、他の何物にも変えがたい大切なものをロイの心にもたらしてくれた。
穏やかに癒される空間をどんなに自分が欲していたのか、ロイは今なら分かる気がした。
しかし、それはただその空間があるということだけでは成立しない。彼が、ハボックが傍にいるからだとロイは分かっている。
だからロイも彼に何か返したいと考えるようになった。
愛された分、それ以上に彼を愛して返したいと思うのだ。
見慣れた建物の外観が視界に入る。
階段を上って、一番奥の扉を開いたその向こう。
ロイを閉じ込める檻、だけどその出入り口はいつもどんなときだって開いている。
部屋の隅、朝になると日の光が差し込んできらきらと輝く場所に、小さなテーブルと二脚の椅子が置いてある。
数日前、二人で家具屋に行き選んで買ったものだった。
「今朝、市場で花を買ったのでテーブルの上に飾っときましたよ」
「ハボック。そういうのは自己申告せずに、さらっと相手に気づかせるものだよ。スマートさに欠ける。感動も半減だ」
「慣れないキザなことをしようとすると、ボロが出るってことですかね」
「お前らしい。…私も大概ロマンティックなことは好きだがな」
明日はきっと素晴らしい朝を迎えられるだろう。
それは予感ではなく二人にとっては確信だった。
Fin.
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