幸福の檻 34






 床に下ろされたロイは、背中を押されてドアの内側に足を踏み入れた。
 だけど玄関のその場所から、前にも後ろにも一歩も動けずに立ち尽くす。
 狭く短い廊下のすぐ向こう、薄暗い闇の中に見覚えのある部屋が見えた。
 あの場所は自分を癒し甘やかすとても暖かくて優しい場所だということをロイは知っている。束の間の夢を見た。もう一度、という誘惑のままに身を委ねるには、自分は罪深く許されない人間だということもまた知っているから、あの場所には近づいてはならない、と思う。

「…少尉、やはり私は……」
 ロイが振り返ろうとしたら、煙草のにおいが急に近くでした。
 あっと思う間もなく、背後から伸びてきた長く逞しい腕に抱き締められ、身動きを封じられる。
「……っ」
「…大佐」
 耳元に深く吐息のよう声で囁かれ、ロイの背中に震えが走った。
「…、はなしたま、え…っ」
 声が動揺にみっともなく揺れてしまうのが、ロイは悔しかった。
「イヤです」
「少尉…っ」
「……」
 拘束するハボックの腕の力がゆるんだと思ったら、ロイは肩を掴まれてすぐ横の壁に背中を押し付けられた。覆いかぶさってくるハボックに顎をつかまれ口付けられる。力で叶うわけがなかった。
 それでも唇を割ろうと深く口付けてくるハボックに、ロイは精一杯唇を引き結んで抵抗する。
「…大丈夫だから、ロイ」
「……っ、っ」
 名前を呼ばれて、不覚にも心臓がどきりとした。
 何が大丈夫だというのか。
 ロイは歯を食いしばった。触れ合った場所から何かが流れ込んでくるような気がして怖い。自分から彼に何か悪いものが流れて行っていないかと思うと怖くなった。
 しばらくふたりの間で攻防が続いた。
 頑なに凍りついたロイの中のものを溶かそうとするかのように、我慢強くハボックはロイの唇を吸い、掴む肩を何度もさすった。ロイの身体を自分の身体で壁の間に挟みこみ動けないようにして何度も何度も角度を変えながら、合わせた唇で愛を示す。
 ハボックは、少し顔をひいた際に、目の先で黒く艶やかに伸びた睫毛が小さく震え、その眦の端に小さく溜まった滴が微かに光っているのに気がついた。その滴をハボックが唇ですくい取ると、ロイが小さく呻いて肩を震わせた。そのとき開いた唇の隙間をハボックは見逃さず、素早く顔を寄せた。
「…、ふ…、ん…」
「…っ」
「…ぅ…ん、ん、…っ」
 慄くように逃げようとするロイの舌をハボックは深く深く唇を合わせて追いかける。
 絡ませ、伝え合い、確かめるように。
 やっとふたりの唇が離れたとき、ロイは息を乱しながらハボックを睨みあげた。
「…ハボック少尉、こんなことを私はもう…っ」
 ロイの肩をつかんでいたハボックの右手が離れ、そのままロイの顔の前に移動した。
 目隠しするようにロイの両目の上に手のひらを当てる。目前にかざされたそれにロイは思わず目を閉じてしまった。その瞼の上にかさかさと乾いたハボックの指がそっと触れた。


「ハボック…?」

 何も見えなくなる。
 感じるのは、瞼に伝わる彼の体温。
 聞こえるのは彼の声。
 見えなくて不安になる心は、目の前にいる彼の気配を必死に探ろうとする。
 より強く彼の存在を意識してしまう。


「じゃあ、魔法をかけましょうか」


 魔法?
 ロイが聞き返すと、もう一度ハボックは魔法です、と繰り返した。

「錬金術師のあんたには笑われそうですが、あんたに魔法をかけようと思います。俺のとっておきのヤツです」

 何を言っているのだろう。

「俺はあんたを困らせたいわけじゃないから、意にそわない事を無理強いしようなんてこれっぽっちも思っちゃいない。けど、あんたの本心、声なき声に気づいちゃったから、このまま放って置けるわけもないです。だって俺もあんたが好きで、手に入ると分かっているものを諦めたり、みすみす逃すなんてこと、したいとは思わないから」

 じゃあこれは無理強いといわないのか。
 無理矢理この部屋にロイを連れ帰って、さっきは閉じ込めようだなんて言っていたくせに。

「あんたは自分に重すぎるくらい悲しい枷を課してる。俺に言わせればなんでそこまで、という感じだけど、それがあんたという人間なんだって分かったから、俺はあんたからそれを無理して取り除こうなんて思いません。だけどそんなふうな辛い生き方をこの先ずっと独りで続けていこうとしているのなら、俺は心配で仕方がないから、あえて口出しさせてもらいます」

 他人の何が分かる? 分かるはずがない。

「お前に、私の何が分かると言うんだ…っ」
 じわりと閉じた瞼の奥から溢れ出した涙がハボックの指をぬらしてロイの滑らかな頬に滑り落ちた。
「じゃあ教えてください。俺に、あんたという人を、この部屋でもっと」
 ハボックはロイの視界を閉ざしている自らの右手に顔を近づけた。
「今、今日このときから、この部屋は俺とあなただけの部屋です。他の誰にも邪魔されない、誰の目にも触れない、2人だけの秘密の場所です」


 2人だけに必要な、2人だけのための秘密の場所。
 外界と隔たれ閉ざされた、檻。


「この部屋の中だけでいい。俺と一緒にいるときだけ、あんたは何もかも忘れて」

 犯した罪も、しがらみも、何もかも。
 許されるのならば。

「そんなこと、できるわけがない…」
「出来ます。俺が魔法をかけるって言ったでしょう。さあ、次に目を開けたら、あんたは――――」


 目の上に翳されていた手のひらが離れていく。
 遠ざかる体温に素直に寂しさを感じている自分がいて、ロイは戸惑う。


「ロイ」


 名前を呼ばれ、ゆっくりとロイは瞼を持ち上げた。
 濡れた視界。目の前にぼやけた男の輪郭。


 目を開いたら。
 いち、にい、さん。
 魔法をかけられて。


「ロイ、俺たちの部屋に、おかえり」


 幾分垂れた目尻を幸せそうにくしゃりと歪ませて。
 なぜ、お前が泣きそうな顔をしているんだと言い返したかったけれどそれよりも。

 おかえり。

 その言葉に、ただいま、と返したくてどうしようもなくて。


 後先を考えるよりも先に、ロイは腕を伸ばし、その胸に飛び込んでいた。





 許されるのなら。
 許して欲しい。
 この男が許してくれる。

 自分を甘やかな檻に閉じ込める。
 さらい、連れていってくれる。






 手を伸ばして抱き締めると、それ以上の力で抱き締め返された。
 涙が止まらなかった。










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