幸福の檻 33






「…なぜ、ここに……?」
 ロイは呆然として呟いた。
 顔の見えない男の声が車外から聞こえる。
「どうぞ降りてください」
「…いや、私は……」
 手だけが差し出される。やはり顔は見えない。
「早く。どうしたんですか?」
 銃を握る、無骨な手が促すように動いた。
「少尉…わ、私は…」
 その手のひらと眼前に広がる建物を何度か往復して見つめ、逡巡する。

 あの部屋は、怖い。
 甘ったれた、自身でも認めがたい自分がいた場所だから。

 ロイの体は見えない何かに縛られて動けなくなった。
「私は…行かない。か、帰る」
「だから帰るんです」
「私が帰るのは自分の家だ、ここではない…っ」
「ここでいいんです」
「からかうな、いい加減にしろハボック!」
 大声を上げたロイに、ハボックは差し出していた手のひらを引っ込める。 理解してくれたのかと思うと、いつの間にか体に入っていた力が抜け、ロイは少しほっとして片側だけ地面に降ろしていた足を車内に再び戻そうとした。
 そのとき不意に傍らの気配が動いた。ロイの上に影が落ち、ハボックの金髪が間近に見えたかと思うと、体がふわりと宙に浮いた。
「!?」
 膝裏に差し込まれた腕と背中を支えられた腕。
 大柄な男の手によって、ロイはいとも容易く軽々とその腕に抱き上げられてしまった。
 驚いて固まっていたのも束の間、ロイは思いがけない展開に手足をばたつかせた。こんな格好、人目につく可能性があるのに冗談ではない。それに意味が分からない。
「な、何をするハボック!?」
「大佐がご自分で降りられないようなので、お助けしました」
 常にないツンとしたハボックの物言いに、ロイは動揺しながらも彼の顔に探るような視線を向けた。彼が何を考え、しようとしているのかがロイには全く分からなかった。彼は前方を向いていて、片足で器用に車のドアを蹴って閉めると、暴れるロイの抵抗をものともせずにアパートメントのエントランスへと歩いていく。
「ハボック、一体どういうつもりだ!?」
「………」
「ハボック!」
「…少し静かにしてくださいよ。近所迷惑ですよ。ほら」
 どこか近くで、ガラガラという軋んだ音を立てて、窓ガラスの開く音がした。ロイははっとして、咄嗟にハボックの胸に顔を押し付け隠す。その拍子に、彼のぬくもりだとか彼の体に染み付いた煙草のにおいが不意打ちのようにロイの意識に飛び込んできて、思わず赤面してしまった。恥ずかしい。何をやっているんだと自分に腹を立てる。
 ロイの頭上でハボックが少し笑った。それがロイの気に障った。
「…ハボック、お前…」
 ロイを抱えて階段を上がる。
 目指すのは廊下の先、1番奥の色あせたドア。
 ロイが睨みあげると、ハボックは斜めに視線を落としてロイと視線を合わせ、微かに口の端を上げて笑った。
「俺ね、決めました」
「……何をだ」
「もうやめました。らしくなく色々考えたり悩んだりするから、ややこしいことになっちまうんだなぁって思って。だからもう、そういうのはやめることにしたんです」
 …何が言いたいのだろう。
 ロイは眉をひそめた。
 穏やかに、よどみなく話すハボックの横顔が何かを突き抜けてすっきりした感じなのがロイにはどことなく気にいらなかった。
「あんたもね、なまじ頭がいいからか、つまんない余計なことばっか考えてすぐ自分の殻に閉じこもろうとする。でも時間がかかった分、分かったこともある。あんたのその臆病なとこ、優しいとこ、深くあんたを知るたびに前よりもっともっと好きになっていった。全部ひっくるめて俺が受け止めて飲み込んでやろうって…大佐、俺にはそれができるよ」
「な、…なに言って……」

 ドアの前にたどり着く。
 この向こう側は…知っている。
 小さなテーブルとひとりがけのソファ、ベッドしかない殺風景な部屋。
 だけど忘れることの出来ないたくさんの思い出を残してきた場所。

「大佐、俺に閉じ込められてください」

 扉が開く。
 閉じたら、そこは。





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