幸福の檻 32






 一日の勤務を終え、自宅までの帰り道。
 運転席でハンドルを握る男は口を一度も開かず、また後部座席に身を沈める男もまた窓の外の景色をぼんやりと見やるだけで、いつもの彼らのやり取りを知るものならばその不自然さに首を傾げるほどに車内は静かだった。ぎこちない空気が二人の間に横たわっている。


 お前って大胆なんだか臆病なんだか。
 溜息とともに友人が呟いた言葉。

 いつもと何ら変わらない車窓から見える街の光景はロイの脳を刺激するものではなく、先刻思いもかけずみっともなく吐露してしまった自身の胸中に対して十年来の友人が自分に投げかけた言葉を思い出していた。

 後ろを見ずに前を向け。欲しいんなら掴め。前へ進め。お前がいつも他人に言っていることだぞ。

 分かっている。自分でも分かっているけれど。
 口で言うほど簡単なことじゃない。
 実際はもっと複雑だ。複雑の要素が存在していて、例えばそれが積み重ねてきた過去であったり犯した罪であったり、何より独りよがりではどうにもならない他人のことだったり。
 こうあって欲しいとどんなに自分が思っていたとしても。、なんでもかんでもが自分の思い通りになんかならないのだ。

 自分の気持ち。
 相手の幸せ。

 どうすればいいのかなんて、もうずっと考え続けている。
 彼のために、ただ彼のことを考えて。自分のことなんて本当はどうでも良くて。

 彼を迷わせてしまった自覚がある。
 そして自分もまた出口の見えない迷路に落ちてしまった。
 でもどこからが自分の間違いで、どこからが彼の勘違いであるのかとか。考えたって、もしも明確な答えが出たとしても、そこからやり直せることができるわけではなくて、なかったことにもできなくて。自分が必死にしている作業はきっと、意味のないものなのだろうとロイは思う。それでも考えずにはいられない。
 彼のために何が一番最善であるのか。

 ロイは視線を窓の外からはがし、運転席の座席からはみ出ている褪せた金色の髪へと動かした。
 彼が朝別れてから今に至るまでずっと口を閉ざしていることにはどんな意味があるのだろう。
 拒絶、後ろめたさ、躊躇い、彼の後姿からはどんな感情も読み取れない。今は硬質な壁が二人の間を遮っているような、よそよそしい感じだ。

 もう本格的に愛想を尽かされたのだろうか。
 何度も告白し、その度にはねつけられ、または曖昧に濁されてばかりでは、誰だって心は傷つくし凹むだろう。
 彼を傷つけてしまうのはロイの本意ではなかったが、この先を長い目で見れば自分が与えてしまった一時の心の傷なんて些細なものだと思う。…思いたい。
 愛想をつかされるということにはじくじくと心が痛んだが、それで以前のようにただの部下と上司の関係に戻れるというのならば、それが一番いいように思えてきた。心の中に吹く暗く冷えた風には気づかないふりをする。

 自ら望んだことではなかったが、今朝には同じベッドの上で目覚め、懐かしいとさえ思った彼の匂いや温もりを久しぶりに間近に感じ、その腕に抱き締められ愛の言葉を聞いて口付けられたあの甘い時間など、どこにも連想することができないような彼の背中だ。頭がどうにかなった自分の夢や妄想だったのではないかとさえ思える。

『あったかいばかりじゃなくて、俺の中には冷たい部分もちゃんとある。人を殺したってあんたみたいに罪の意識にさいなまれることもなく、自分の中で折り合いをつけられる卑怯さだってあるよ』

 自分を優しく抱き締めて言い聞かせるように口にした彼の言葉。自分を真っ直ぐに見つめてくる青い、青い空のような澄んだ青い双眸。
 ロイははっとした。
 彼が銃を構え、引き金を人に向かって引くところを見た事がないわけではない。軍人ならば誰でもその職務として、時にはその非常さや覚悟が必要だ。ためらいが自身の生死や周囲の人間の安全を脅かすことに繋がることになるのならば尚更。
 そんなときの彼はどんなだった?
 太陽のような暖かさなど感じない、むしろ氷のような冷たさを伴う峻烈な目で、判断で行動する人間だったのではないか。
 的確にその場の空気を読み取り、物事の判断ができる、だからこそ自分は彼を部下として信頼し自分の背中を預けられると……。





「着きましたよ、大佐」

 不意に投げかけられた言葉にロイは驚いて肩をびくりと揺らしてしまった。常にスマートな立ち居振る舞いを心がけているロイは、らしくない自分の反応に少しだけ赤面し、ごまかすように一つ小さく咳払いをした。
 いつの間にかエンジンは切られていて停車していた。
 金髪の長身が運転席を降り、自分のために後部座席のドアを開ける。いつもの決まった流れでロイも車から降りようとして……ふと動作を止めた。

「………?」

 まだ車中にいるロイからはハボックの胸から上は車の天上が視界を遮っていて、彼がどんな表情で傍らに立っているのかは分からなかった。
 しかしそれよりも何よりもロイの動きを止めさせたのは、ハボックの後方に広がっている景色だった。
 車が停まったのはロイの家の前ではなく。

「ここ…は………」

 閑静な住宅街にひっそりと建っているくたびれた外観のアパートメントの前。
 その建物の2階、階段を上った1番奥の部屋の住人が誰であるのか知っている。
 一週間の間だけ、目の前のこの男と恋人として過ごした甘く、そして自嘲にも似た苦い思い出があるあの狭い部屋。
 ロイは思い出さないように蓋をしていた懐かしい日々を一瞬のうちに引き出されていた。










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20080424up