幸福の檻 30
「顔、見せて」
「イヤだと言っている」
「大佐」
「…もう少しだけ、このまま」
「大佐」
ハボックはそれでも辛抱強くロイを促した。優しい手つきで後頭部から首にかけてを撫でる。滑らかな黒髪の手触りが愛おしい。
しかしそんな穏やかな動作とは違い、ハボックの内面は暴走しそうなほどに高まっていた。本当は今すぐ力いっぱい彼を抱きしめたい。顔を上げてくれないのなら、力ずくでも自分で引き上げてその表情を、真意を確認したくて仕方がない。
自分を抱き返してくれるその意味を。
期待せずにはいられない。
しばらくしてから、ぽつりと腕の中から声が漏れた。
「………お前があたたかくて」
「……?」
「あたたかくて、手をのばしてしまった。自分にはふさわしくないものを望んでしまった」
告白にハボックは黙って耳を傾けた。
「私には暗い場所が似合っている。そういう風に生きてきた。焦がれる光を目指して殉教者の如くひたすら歩けばいい。光に手が届いたときは、私の存在する意味がなくなるとき。私はそれまで歩き続ける。そのときまでは許されている、そう感じるから」
「…何に許されたいんですか?」
光とか許されたいとか。漠然としていてよく分からない。
「私は大総統になりたい」
それはロイにとっては己の出世欲をみたすためだけの野望ではなくて。それはロイの部下である皆が知っていることだ。
この国のありようを変えるのだと。
青臭くも確固たる信念で目指すもの。
「それだけでいいんだ。私にはそれだけでいい。他のものは必要ない。大総統への道が1本あるだけでいい。それ以外のものを私は望んではいけないんだ」
例えばそれは、己の幸せ。心を迷わせるもの。体を、心を休ませる余計な時間。あたたかな誰かの腕。
「なぜですか。望んじゃいけない…?」
「私は」
ロイの体が動いた。
ぬくもりが離れ、少し近づいた心がまた遠ざかっていってしまったような気分になりハボックは不安になった。
ロイは俯いたままで表情は分からない。
「私は、罪人だから」
「罪人?」
「罪を背負って生きていく人間には、枷が必要だろう」
「罪って……」
問いかけながらも、ロイが何をさして「罪」と言っているのか、ハボックには分かっていた。
「数え切れない人間を殺した」
イシュヴァール。無益に血が流れた場所で。
「そ…っ、そんなこと、だってあれは…!」
「あのときに感じた虚しさややるせなさ、言いようのない恐怖がその後の私の進むべき道を決めた。私が国を変える、そのためだけに生かされていると感じるから」
生きることに理由が必要?誰かの許しが必要なのか?
そんなふうに自分を縛り付けることの意味が。
「戦争だ。あんたがひとり、そんなふうに抱えなくたって…」
「自分で自分が許せない」
戦争が。人の命を理不尽に奪うという行為が。
人の人生を暴力的に狂わせる。
心にふさがらない傷を作る。
「そんな私が…、甘えだったんだろうな。あの日あの時、お前があたたかくて眩しくて、つい触れてみたくなってしまった。触れて包まれて、その心地よさに我を忘れた。魔がさしたとしか言いようがない」
「……いいじゃないですか、それで。何がいけないんですか」
ずっと暗くて冷たい場所にひとり居続けるなんて、きっと気が狂いそうになる。
ロイは力なく首を左右に振った。
「怖くなった。暖かい場所は私の決心を迷わせる。弱くさせる。それに私はお前には……」
ロイがハボックを見上げた。ハボックの想像を裏切り、ロイの瞳は潤んではいたがその頬に涙の流れた跡は見当たらなかった。
黒い双眸は感情に揺らいでいたが真っ直ぐにハボックに向けられた。
「相応しくない」
ぐさっとハボックの胸に痛い言葉が刺さった。
「……そ、そりゃ、大佐の相手には俺は相応しくないでしょうけど…。男だし部下だし……」
「違う。私のような男にお前は勿体無いと言いたいんだ」
「……え」
「自分でも自分の気持がよく分からない。お前のためにも私から遠ざけたほうがいいと思ったから嘘もついた。酷い言葉を投げかけてお前を傷つけもした。でもお前は結局今ここにこうしていて……、だから私は」
つい先刻抱き返してくれたロイの腕の意味。
でも、まだ迷っているのだろう。
彼が己に科した罪の枷、その重さを自分が軽くしてやれるなんて思い上がっていないけれど。
でもこれだけは言ってやりたい。
「大佐」
その頬を両手で包んだ。
「俺をよく見て。あんたは少し勘違いをしてる。俺は軍人ですよ。銃を握り人を殺したこともある。人殺しが罪人だって言うんなら俺だってそうですよ」
「お前の銃の先にいたのは、罪のない一般人じゃない」
「人の命の重さに差がありますか。自分が引いた引き金が相手の命を、その先の人生を断ち切るんですよ。相手がどんな人間だとしても、覚悟が必要だ。責任も持たなきゃならない。だから俺だってそういうの、ちゃんと背負って生きてる」
「………ハボック」
「暗い部分だって持ってる。あんたは俺のことを眩しいとかあったかいとか言うけど、俺の中には冷たい部分もちゃんとある。人を殺したってあんたみたいに罪の意識にさいなまれることもなく、自分の中で折り合いをつけられる卑怯なところもあるんだ。俺と大佐と何が違うの?何が相応しくないの?」
「ねえ、俺はあんたのその生真面目で一生懸命なとこ、嫌いじゃないけれど」
何でも一人で背負いこまないで。
自分を追いつめないで。
好きなら。必要としているなら。
誰の許しも必要ではなくて。
苦しいなら。分かち合えばいいじゃないか。
そう願いながらハボックはそっとロイの唇に自分のそれを重ねた。
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20071128up