幸福の檻 3






 
東方司令部司令官ロイ・マスタング大佐の所在が分からなくなって3日目。
 彼が行方不明だという情報は軍部内の動揺を避けるため、公には伏せられていた。
 知っているのはロイ直属の部下であるリザ・ホークアイ中尉以下、数名のみである。




 ロイは3日前、大量の書類を執務室に残したまま、忽然と姿を消した。
 当初は大佐のことだからまた仕事をサボって抜け出して、どこかで昼寝なりデートなりをしているのだろうと思っていたのだが、その日の夜になっても翌日の朝、さらには昼になっても、一向に彼は職場に姿をみせない。
 さらには、彼の自宅を警護している兵士からは、丸一日ロイは家に出入りしていないという。
 その日の夜になって、いよいよ事態がもっと深刻なのではないかと部下一同は考えるようになった。


 誘拐されたのか。


 今現在、犯行声明は届いていない。
 しかし、軍に良くない思いを持つ者たちが集まり、テロ・グループとして各地で騒ぎを起こしているのも事実だ。
 ここ、東方司令部があるイーストシティは、軍部の中枢が集まるセントラルシティと比較すると、その動きはまだ活発ではないが、表面に出ていないだけで水面下でどうなのかは分からない。
 なによりも誘拐されたのが、あのロイ・マスタングならば。
 先のイシュヴァール戦役で、国家錬金術師-人間兵器-として活躍し、名をあげ、若くして大佐の地位にまで上り詰めた者ならば、人質として、また交換材料としての利用価値はテロ・グループにありあまるほどだろう。
 だがしかし、まだ誘拐と決まったわけではない。とにかく情報が全くないのだ。
 ホークアイらは、状況を見定めつつ、上司の無事の帰りを祈り、待つことしか出来ないでいた。





「ホークアイ中尉」
 その声に、ホークアイは我に返った。
 いつの間にか机の傍らに、煙草を口の端にくわえた長身の男が立っていた。
「手、10分ぐらい前から止まってましたよ。少し休んだらどうっすか」
 長身を少しかがめて、ハボックは湯気の立つマグカップをホークアイに差し出した。
「ありがとう、少尉」
 カップからコーヒーのこうばしい匂いが漂う。中身をのぞけば、いつものブラックではなくミルクを少したらしてある。疲れているホークアイに対してのこの男の心遣いだった。
「ホントに大佐、どこいっちまったんですかねー」
 ハボックの視線が窓の外へと移った。青い目がすがめられる。
 今日もいい天気だった。
「俺、あの日夜勤明けで早々に家帰ったんで、そういえば大佐に会ったのって朝の会議だけだったんですけど。やっぱり普段から、護衛もつけずにうろうろ歩き回らせる癖はやめさせておくべきでしたよね。こんなことになるなんて」
「護衛なんてつけても、あの人はすぐ撒いてどこかに行ってしまうわ。監視されたり、なにかに縛られたりすることに敏感な人だもの。地位がどんなに上がっても、多分あの人のそういうところは変わらないんじゃないかしら」
「中尉は大佐のことならなんでも知ってるってかんじですね」
 振り向いて、ハボックが笑った。
 目じりが垂れて、そうすると優しい、好青年な印象になる。
 笑顔につられて、そんなことはないわ、と少し笑ってホークアイは返そうとしたが、しなかった。


 何かが引っかかったのだ。
 優しい笑顔になる前の、彼の表情。その、目。
 温度のないような、冷めた、彼らしくない色。その青い双眸。
 違和感があった。


「中尉?どうしたんすか?」
「え?ああ、なんでもないわ」
 こちらを覗き込む男は、今はもういつもと変わらない。飄々とした風体に、愛嬌さえ浮かべて。
 だけど、この男がそれだけの男ではないこともホークアイは知っている。
 たとえば銃をその手に握るとき。
 獲物に狙いをつけたときの彼は、青い目に鋭さを伴って、狩人のそれになる。
 慈悲も容赦もなく、ただ獲物をしとめる。
 それはすべて、ただ一人のためなのだ。
 ロイ・マスタングのためだけに優しい男は鬼になるのだ。


「中尉、ホント顔色よくないですよ。少し仮眠とってきたらどうですか。そんなんじゃ、この先もちませんって」
「大丈夫よ。こんなときに休んでなんかいられないもの。大佐がお戻りになられるまで、なんとかもちこたえてみせるわ」
 ホークアイはこの目の前の男を完全に信用しているわけではない。
 信用できるだけのものを、この男から見せられてはいないように思うのだ。
 笑顔の裏に、なにかがあるような気がして。
 だが他ならぬ自分が全幅の信頼を寄せる上司ロイ・マスタングが、自分の部下に、護衛にと選んだ男だ。その男のことをホークアイが詮索するようなことはしたくなかった。
 春の日差しのような笑顔でハボックは言った。
「俺たちだっているんですよ。ブレダ、ファルマン、ヒュリー。もっとみんなを頼ってくださいよ。中尉が休んでいる間ぐらい、俺たちだけでもなんとかできますって」
 この笑顔を、どうして自分は疑うのだろうと思った。





 2階への階段を上る。
 深夜にさしかかろうとしている時間だった。
 薄汚れたアパートメント。
 3日前まではなんの味気も色気もない場所だった。
 でも今は違う。
 あの人が待っている。
 疲れた頭や身体を受け止めてくれる存在が、ドアの向こうで自分を待っていてくれる。
 そう考えるだけでも気分が浮上する。
 疲れて重く感じていた自分の足が軽くなる。
 廊下を歩き、1番奥のドアを3回ノックする。トン、トントンとリズムをつけて。それが二人の合図。
 彼には自分以外の人間が訪ねてきても、ドアを開けないように言ってあるのだ。
 施錠を外す音。
 ゆっくりとドアが開き、隙間から小さくて丸い形の良い頭がのぞいた。
 おずおずと見上げてくる彼の顔を両手で優しく包み込み上向かせると、その額に軽くくちづけた。


「ただいま、ロイ」


 笑って言うと、彼は恥ずかしそうに少し頬を染めた。





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20060417UP