幸福の檻 26
深く息を吸い込む。なす術もなくみっともなく乱れた心が徐々に落ち着いてきた。
大丈夫。
大丈夫。
自分に言い聞かせる。次にこのドアを開けたら何でもない日常に戻れる。ヒューズは親友、ハボックは信頼できる部下。大丈夫だ。
冷たい水で顔を洗った。気持ちが引き締まる。鏡で自分の顔を見た。切れた眦の奥から黒曜石の輝きが見つめ返している。おかしいところはない。そして最後に自分の心に鍵をかけた。あの男を想うと切なく痛む脆弱な心を仮面で隠す。
もう一度深呼吸をした。少し体が軽くなった気がした。背中を伸ばす。
出勤する時間が迫ってきていた。いつまでもここで篭城しているわけにはいかないのだ。
(よし、行こう)
ロイがドアノブに手をかけたそのとき、部屋の奥から鈍く重い音がした。
避けようと思えばできたが、そうしなかった。
自分にはそれが必要だと思ったからだ。
瞬間目の前に星が飛んだ。
歯を食いしばってそのエネルギーを最大限に自分の頬で受け止めた。実際的なこの痛みと、あの人を想って痛めていた目に見えない心の傷や疼きと、果たしてどちらのほうが痛いだろう、と呑気に一瞬考えた。
ハボックはヒューズに自分とロイの間にあったことを、言葉を飾らず濁さず、簡潔に説明した。感情のこもらない淡々としたものだった。
ロイとハボックが騙しあって過ごした1週間のこと。
ハボックが激情のままに一方的に働いたロイへの暴力のことを。
ヒューズは一切言葉を挟まずにハボックの話を聞いていたが、握り締めた拳は震え、その頬は緊張していた。
そして、話し終えたハボックの頬を加減無しに思い切り殴りつけたのだった。
「てめえ、自分が何したかわかってんのか!?」
ヒューズはロイの長年の親友だ。ロイの性格を理解しているからこそ「最初の騙し合い」辺りの2人の流れは、双方合意のもとにそんな関係になったのだからと(容認はできないが)まあ仕方がないと思えるのかもしれない。だが「一方的な暴力」については許せないのだろう。
ヒューズの怒りは、自分の親友が「傷ついていないわけがない」と分かるからだ。
殴られた頬が熱を伴ってじんじんと痛み、ハボックを責める。
愛しているからだとか、全然分からないあの人の気持ちが少しでも知りたいからだとか、どんな言い訳も通用しないし、許される理由にはなり得ない。
それでもハボックは「でも」と言葉をつなげずにはいられなかった。この心に巣くう苦しいまでの想いはどこに向かえばいい。
「でも、じゃあ分かりますか。大佐の気持ち、考えていること、ご親友の中佐なら分かりますか。あの人は俺が勘違いするようなことばかりする。俺はバカだから期待しちまう。でもあの人は寄りかかって俺の胸に飛び込んできた次の日には、全然違う顔をして冷たく俺を突き放すんだ。ワケわかんねぇんだよ」
気持ちが昂ぶり涙が出てきた。言いたくない言葉まで口から出てしまう。心にもないこと、ではないがその可能性をハボック自身が考えたくなかったことだ。
「中佐は昔から大佐のことは知っていますよね。大佐は昔からああだったんですか。人のことを好きなだけ振り回し心無い行為を繰り返していましたか。……ああ、それともただ淫乱なだけなんですかね。知りませんでした。女好きで通っているけど男も………」
「あいつを侮辱するな!!」
怒気とともに再びヒューズの拳が振り上がった。
2度目の怒りも避けようとは思わなかった。。
だがそれはハボックの頬に到達する前に、2人の間に割って入ってきた人物によって止められた。
「やめろヒューズ!」
ダイニングルームに戻ってきたロイだった。
next
20070803up