幸福の檻 24
ヒューズに言われたとおりに洗面所で交互に顔を洗ったあと、ロイとハボックはダイニングルームに顔を出した。すでにテーブルの上には3人分の朝食が用意されていて、ヒューズはまるでこの家の主かのように新聞紙を広げて席に着き二人を待っていた。
「あの、俺が同席して食べるのもナンなので……」と言って首の後ろをかきながらこの場を去ろうとしたハボックだったが、「せっかく俺が用意したんだから食ってけ」というヒューズの言葉にグッとつまって、結局席に着いた。
普段は余り階級とか上司とかそういうのを気にしていない風なハボックでも、一応こういうときに気を遣うくらいの繊細さは持っているらしい。
清清しい朝。おいしい朝ごはん。1日の始まり。
だが皆が席に座り食べ始めても、その場にあるのは重苦しい沈黙だった。
「………」
………なんだろう。居心地が悪いというか、非常にいたたまれないこの感じ……。
そういえば、なぜ自分がハボックと一緒のベッドで眠っていたのか、ハボックにもヒューズにもまだきいていないロイだった。ハボックが家にいること自体、訳が分からない。
(とりあえずヒューズにそこらへんを何気なくきいてみるか…)
俯いたまま黙々とスープを口に運んでいたロイは、ちらりと前に座るヒューズを盗み見た。するとヒューズも自分を見ていたのか、ばちりと目が合ってしまいロイはなぜか慌ててまた視線を下に戻す。
(な、なんだ? ヒューズのヤツ、怖い顔をしている)
何かを探るようなまなざし。そう、観察されているような…?
昨日の夜、何か自分はしでかしたのだろうか。
しかし思い出そうとしてもできない。
酒は飲んでも呑まれるな、という言葉を思い出した。頭が痛い。
それとも他人の心の機微にさとい彼のことだ。もしかしたらハボックと自分の間にある微妙な空気を感じ取っているのかもしれない。さすがに痴情のもつれ、という考えには至っていないだろうが。
ロイは恐る恐るもう一度、親友に目を向けた。しかし今度は目が合わなかった。なぜなら彼の視線は隣の金髪頭の男に向かっていたからだった。やはり観察するような目をしている。
「………」
ロイは起きてからこのとき初めてハボックを真っ直ぐ見つめることができた。
一時は陪食を遠慮した男と同一人物とは思えないくらい2人の前で落ち着いて食事を取っている。いつもはのほんとしたのんびりムードが前面に出ている男だが、腐っても軍人、他人の気配には敏感だ。ハボックがヒューズの至近距離での視線に気づいていないはずもなく、当然この食卓に漂っている緊張感だってひしひしと感じているはずだった。なのに、彼はそれをそ知らぬ顔で流している。
ロイは目の前にあるサラダをフォークでつついた。起きたばかりなのであまり食欲はない。野菜の緑や赤をぼんやりと眺めた。頭の中ではここ数ヶ月、自分の頭の中を、心をかき回し続けている目の前の男のことを考えている。
ロイはハボックのことを、人がいいばかりで余り融通がきかない人間、だと思っていた。愚直な優しい男だと。
だがここ数ヶ月、ハボックと一歩踏み込んだ付き合いをし、彼という人間に触れることを繰り返すうちに、少しずつ自分が彼に勝手に抱いていた人物像を修正する破目になった。
優しいだけじゃない。
駆け引きをする狡さも持っている。
純粋な笑顔だけでなく。
あの晴れた日の湖面のように澄んだ青い瞳が、いつも包み込むような暖かさをもって自分に向けられるわけじゃない。激情に荒れ狂った深い色に染まることもあるのだと。
「………」
ハボックがロールパンを千切って口に運ぶのをロイは目で追った。
銃やナイフを握る、軍人の無骨な手だ。骨ばった形、指先は多分かさついている。投げ込まれたパンを咀嚼する口許。いつも煙草をくゆらせている割には表情が豊かな大きな口。あの唇の感触……、あの唇に求められぐずぐずになったしまった自分を思い出す。頭の芯まで突き抜ける酩酊感に………。
『好きです、愛しています、ロイ』
「………!!!」
ガタンッ
空間を壊すような音が、静かな食卓に突如響き渡った。
口許を右手で覆ったロイが立ち上がっていた。
「どうした、ロイ」
ヒューズがびっくりして声をかける。ハボックも驚いているようだった。
「ロイ?」
ロイの前のサラダの皿の上には、フォークが刺さったままの食べかけのアスパラガスがあった。それに気づいたハボックが目を丸くする。
「え、大佐もしかしてアスパラガス食べたんですか?!」
ハボックが驚くのも無理はない。ロイは嫌いなものは何が何でも、それこそ地球上にもうこれしか食べ物がない、これ食べないと死ぬよと言われても、嫌いなんだ食べるもんかと言い切るくらいそこら辺は徹底していた。
同じ部屋で寝起きしていたあのときに、それはもうイヤってくらいに体験済みだ。身体にいいから食べてくださいといくらすすめても食べなかったもののリストの中に、アスパラガスも入っていたのだった。
一方ヒューズも長年の付き合いから、ロイがアスパラガスを嫌いなのを知っていた。知っていたがあえて朝食のメニューに入れたのは、やはり親心(?)からである。食材の全く入っていない冷蔵庫の中身にため息をつきつつ、早朝少し足を伸ばして市場まで足を運んで入手したのだった。
「おっ!? ホントだ! お前、アスパラ食べられたじゃねえか!!」
「大佐、もしかしてうっかり食べちゃって気持ち悪くなってたりとかしてます!?」
「ロイ、そうなのか!?」
口に手を当てたまま、ロイは黙ってうつむいている。
「おい、吐きそうなのか、ロ…」
心配したヒューズが身を乗り出して顔を覗き込もうとする。はっとして咄嗟に顔を上げたロイとヒューズの視線が一瞬だけ交わった。そしてその目がヒューズの隣、ハボックに移動する。
「!」
一目で分かる、その異変。
ロイのいかにもデスクワーカーという感じの、日に焼けていない白い肌が―――頬と言わずその耳朶まで、真っ赤に染まっていた。
なぜ赤面している?
訳が分からず動けなかったヒューズに対して、ハボックは立ち上がり尋常でないロイの側に行こうとした。
「大佐、あんた何………」
「ハ、ハボック来るな!」
ハボックを手で制し、ロイは動揺のためにか、よろけるようにして2歩ほどテーブルから離れると身体をくるりと回転させた。
「だ、大丈夫だ、ちょっと、ト、トイレに行ってくる……!」
「大佐!?」
「おい、いったいどうしたんだ、ロイ!?」
ロイは走って逃げるように部屋を出た。
自分を心配する二人の声がしたが、構う余裕は残っていなかった。
朝っぱらから自分は何を考えているんだ。どうかしている。
落ち着け。落ち着くんだ、ロイ・マスタング。
そうは思っても胸の動悸はいっこうに治まってくれなかった。
こんな自分はおかしい。
頭を冷やさなければ。
ロイは一人きりになれる空間がとにかく欲しくて洗面所に飛び込んだ。後ろから追いかけてくる足音にはまだ気づいていなかった。
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20070422up