幸福の檻 23
まだ眠りのふちを漂っていたい、眠気と意識がせめぎ合う曖昧な時間。許されるならばいつまでもこの波に揺られていたいと思うほどに、この怠惰な時間が好きだった。
すぐ近くに誰かがいる気配がする。
あたたかくて気持ちいいけど誰だろう。
(誰…。そもそも昨夜はどうしたんだったか…)
鼻先に感じる匂い。これは…なんだか懐かしい。
自分はどこでこれを嗅いだだろう。なぜだかひどく…安心する。
(……ああ、そうだ。これはアイツの煙草の……)
口許に自然に笑みが浮かんだ。
懐かしいな。
あの時はいつもこの匂いに包まれて目が覚めた。
煙草と、男臭い体臭が入り混じった……
(え)
そう思い至ったところで一気に覚醒した。
(そうだ、この匂いは……っ)
悲鳴が出るかと思った。
目の前には黒いアンダーシャツからのびた逞しい二の腕があった。視線を上げると幾らか髭の伸びた顎が、さらに上にくすんだ金色の髪が。
よく見慣れたこの人物は自分の、つまりロイ・マスタング大佐の部下のジャン・ハボック少尉ではないか。
(どどどど、どういうことだ!? なぜ一緒に!? なぜコイツがここにいる!!!???)
彼がここにいるということも大問題だが、もっと問題なのは自分と彼がひっつくようにして寝ていることだ。
足が。掛け布団の下に隠れているので目で確認はできないが、自分の左足がハボックの足の上に乗り上げているのだった。
(ど、どうしよう)
この体勢はまずい。彼から離れなければ。
見ればまだハボックは目を覚ましていない様子だ。ロイの好きな薄青い優しげな瞳はまだまぶたの裏に隠されたままで、筋肉の盛り上がった胸も穏やかに上下している。
離れなければと思うのに、目前の男の寝顔を見て身体は固まっていた。心が切なさで震えた。
こんなに近くに彼を感じるのは本当に久し振りだ。
(駄目だ。こんなふうにもう彼を感じることは、駄目だ)
互いの嘘や遊戯の上に成り立っていたものだったとしても、もう彼との甘い時間は終わったのだ。自分から彼のために終わらせた。
そう思うのに。
夢の中だけは。今だけは。そう願う弱くて醜い自分の心。みっともないくらい女々しくても。
彼の匂いを胸に吸い込む。
彼の体温を記憶する。
おぼえておこう、全部。全部、彼の与えてくれる熱を忘れたくない。
息をするのが苦しくなった。涙がにじんだ。
いつの間にこんなに好きになっていたのだろう。
優しさに、甘やかしてくれる腕にいつも癒されていた。疲れたら彼に寄りかかれるなんて、当り前のように思っていた。
好きだ。
好きなのに。
好きだから。
垂れそうになった鼻水を小さくすすった。その音を眠るハボックの耳が拾ったのか、眉がピクリと動いた。
(!)
ハボックが起きてしまう、その前に離れないと。はねた心臓をなだめてそう思った瞬間。
がんがんがんがんがんがん!!!!!
ドアが開けられたのと同時に、部屋に凄い音が響き渡った。
「わああっ!!!?」
「うわわっ!?」
驚いたロイは慌ててベッドの上で飛び起きた。
「はいはいはい! 朝だぞ起きろお前ら!」
ドアの前にはエプロン姿の男、マース・ヒューズが鍋の蓋とボウルを手に立っていた。
「ヒューズ!?」
「中佐、おはようございます!」
横から自分の声とかぶるように発せられた大声にロイが傍らを見れば、ハボックがかしこまって正座をした格好で、なぜかヒューズに敬礼をしていた。
「ハボック……?」
「………」
口を引き結んだその横顔は、寝起きにしてはしゃきっとしすぎていて、なぜだか少し頬が紅潮しているような気がした。
仲良くベッドの上で並んで座り込んでいる二人に微妙な視線を送ってから、ヒューズは言った。
「朝ごはん作ってやったぞ。顔洗ってから下に降りて来い」
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20070418up