幸福の檻 20






 あの人のためなら命も賭けられる。

 そんな風に自然に思えた自分の直感を信じている。
 他人に説明は出来ない。あくまでもそれは感覚だ。魂の奥深いところで自分が求めるものを彼の中に見た、ということなのかもしれない。

 だから俺は、自分の感覚を信じるように彼のこともまた信じている。
 今でも、まだ。









 どこか遠くで遠吠えする犬の鳴き声が聴こえる。
 深夜。寝静まった住宅街。

(………あれ?)

 ハボックは、道の真ん中できょろきょろと辺りを見回した。

(なんで俺ここにいるんだろ……??)

 気がつけばぽつんと一人、暗い夜道に立っていた。

(ここは……)

 体が中心をなくしたかのようにふわふわする。頭の回転が鈍くなっていて、目が泳いでいる自覚もあった。そうだ、自分は酒に酔っている。
 つい先刻まで店のオネエチャンに愚痴を聞いてもらいつつ、時には熱くなって自分の熱情を語り、時にはオネエチャンに厳しく突っ込まれ励まされたりしながら飲みまくっていたのだ。そのあと我が家へと帰路についたはずだったのだが。

 ハボックは目の前の、見慣れているはずの建物を見つめた。数日前までは当り前のように上司を車に乗せて仕事場とこことを往復していた。

 そう、目の前には黒い門扉のロイ・マスタング邸があった。

「………」

 ハボックはぼりぼりと首の後ろをかいた。
 どうやら想い人に会いたいという気持ちが無意識のうちに足をここに運ばせたようだ。かなり重症だ、苦笑するしかない。

 門の正面から見える窓には灯りはともっていなかった。ロイはもう寝てしまったのだろうか、それとも……。

 そのとき、道の向こうから1台のタクシーがやってきてすぐ側で止まった。

「ほら、着いたぞ。降りるからしっかり立てよー」
「んーーーー…」

 車から先に降りた男が、もう一人の男を支えるようにして車から降ろした。
 ほどなくして車が走り去る。そしてハボックの目の前に残ったのは……。


「大佐に中佐!!?」


 その声に、もたれかかる男を支えるようにして立っている男が振り向いた。個性的なスクエアの眼鏡に顎に生やした髭、愛娘をこよなく愛する男マース・ヒューズだった。そして彼に寄り添って立っているのは、ハボックの心の半分以上、いやほぼ100%を占領している上司ロイ・マスタングその人だった。


「あれ、ハボック少尉じゃん。何してんだ、こんなとこで。ロイに用事か?」
「え、いえ、その……」
「ロイはこの通り潰れちゃってんだが急ぎか?」

 ヒューズの肩に片頬をくっつけてロイは目を瞑っている。支えられて辛うじて立ってはいるが、半分眠っているのだろう。ヒューズとハボックの声は彼の耳に届いていないようだ。
 ハボックは酒でほのかに色づいているロイの顔を切ない気持ちで見つめた。

 ロイに会いたかった。会いたい気持ちでここに来たはずだった。だが、今はなぜだかすぐにここを立ち去りたい気分になっている。

「偶然、ここを通りかかっただけなんです。大佐に用があるとかそんなんじゃないです」
「そうなのか?」
「はい、ホントにたまたまで……」


「……ューズ……?」


 ロイが薄く目を開けた。唇が動き小さく呟く。
 ヒューズがそれにこたえるように少し動いた。軽くぐらりと揺れたロイの体を腕で抱きとめて、その拍子に2人の顔が近づいた。

 吐息が触れるほどの接近。
 まばたきをするほどの、ほんの数瞬の。

 どくん、と心臓が波打った。
 それを目にしたとき、自分でも制御できない感情にハボックは支配された。


 イヤダ。
 ソノ人ハ俺ノダ。


 考えるよりも先に勝手に手が、足が動いていた。衝動に突き動かされるまま、ヒューズの腕からロイを乱暴にもぎ離した。

「少尉!?」
 後方によろめいたヒューズがびっくりした顔でハボックを見ている。だがハボックはそれに構わず崩れそうになるロイを両腕に軽々と抱き上げた。

「ちょ、少尉、突然何……っ」
「大佐は俺に任せてください!」
「は!?おまえ、何言ってん……」

 何がなんだか分からない。突飛な展開についていけないヒューズだった。

「俺が運びます!大佐は俺の……」
 想い人を腕に抱いて、意気揚々と門に向けて歩き出したハボックだったが、しかし彼もまた酒飲みの酔っ払いの一人だった。普段の彼ならばぜったいにやらかさないヘマを彼は犯してしまった。

 がつっ。

 足をもつれさせた。

 前のめり。ハボックはバランスを失った。

「あ」

 夢うつつなロイは綺麗に宙に放り出された。





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20061128up