幸福の檻 2
つまりは、打ち所が悪かったと。
そういうことなのだろう。
「私は、誰だ?」
涙目で瞬いて、不安そうにこちらを見つめるロイを、ハボックはあれからすぐに自宅に連れ帰った。
用心深く、誰の目にも触れないように。
ハボックは軍の独身寮を出ていた。司令部からそう遠くはない閑静な住宅街にひっそりと建っている築20年は軽くたっているだろう少しくたびれたアパートメントに部屋を借りていた。2階建ての2階、階段を上った1番奥の部屋だ。
小さなソファとシングルベッドぐらいしか置いていない殺風景な部屋。
仕事を終えて疲れて帰ってきてベッドにダイヴし、翌朝食事もしないでまた仕事に出かけてゆく。ただ眠るためだけに借りているような空間だった。
だが今、その部屋に自分の上司がいる。奇異な光景だった。
ロイはハボックに勧められるまま、ソファにちょこんと座っていた。
居心地が悪そうに部屋中をきょろきょろと見回している。丸くて形のいい小さな頭が動くと、癖のない艶やかな黒い髪もさらさらと揺れて、ハボックはそれについ見とれた。その動きが綺麗だなと思った。なにか飲み物をと思い、インスタントコーヒーを淹れていた手も止まっていた。
と、ロイがこちらを振り返る。
「おまえ、私のことを知っているのか?」
「え、あ、ああ、はい」
視線を外し、ハボックは急いでコーヒーをマグカップに注ぎ、そのひとつをロイに差し出した。ロイは礼を言いそれを両手で丁寧に受け取った。
上官が、あのロイ・マスタングが自分のこんな安アパートにいるというおかしな状況に少し笑いたくなる。
(自分で連れてきたくせに)
半ば、さらうように連れてきてしまった。
「その…大佐、本当にあんた、その…記憶が?」
正直、ハボックには今でも彼が『記憶喪失』だなんて信じられないでいる。
「うむ…、自分の名前が思い出せないのだ」
(俺が思いっきり大佐を蹴飛ばして、その打ち所が悪かったって・・・、つまりそういうことなのか?)
「自分のことがまるで思い出せない。お前のことも分からないのだが、同じ職場で同僚…といったところか?」
「へ、同僚…ええと…」
「同じ制服だったからそう思ったのだが違うのか?部署が違うとか…」
「そんなことはどうでもいいです。記憶、本当にないんですね」
「だからそうだといっている」
ロイは少し怒って、手元のマグカップを口に運んだ。口を尖らして子供っぽい表情だ。キッチンカウンターに寄りかり立ったままハボックもコーヒーを胃に流し込んだ。
(どうしたらいいんだろう)
ハボックは考える。
上司が記憶喪失。東方司令部副司令官が記憶喪失。あのロイ・マスタングが。
軍医に診せるべきだった。
冷静な声が脳裏に響く。
すぐに医務室へ連れて行き、軍医に診てもらい、ホークアイに報告するべきだった。
なのに自分は誰にも告げず、彼をここに連れてきてしまった。
自分のテリトリーに彼をしまいこむように。彼の記憶ごと彼の存在を消し去ろうとでもするように。
記憶を失った彼は自分の上司ではない。そんな考えがあのとき頭をよぎったのだ。
だったら、今までとは違う関係を作れるのではないか。
一から、すべてを。そんな打算が。
(ああ、そうか)
なぜ自分が彼を家に連れてきたのか。
自分が何をしたかったのか、ようやく分かったような気がした。
「少しあんたのこと、話しましょうか」
マグカップをカウンターに置いて、ハボックはロイの足元に膝をついた。
「あんたの名前は、ロイ。ロイといいます」
「ロ、イ」
ロイは確かめるように名前をゆっくりと声に出した。そうすることで失った記憶を取り戻せればいいというように。
ハボックは真っ直ぐにロイの目を見つめ、これから自分が言おうとしていることを想像して興奮した。
一世一代の大ペテン師を演じようとしているのだ。
少し汗ばんだ手のひらを、カップを握るロイの手の上にそっと重ねた。
初めて触れた彼の手は白くて綺麗だった。
「あんたはここで俺と一緒に暮らしていた」
思っていたよりも淀みなく、口から嘘はすべりでた。
「ここに」
ロイは目を丸くして聞き返す。
「ええ、そうです。狭くて何にもないとこだけど、二人でいればそれだけで楽しかったですよね」
「…?それはどういう…?」
意味が分からず、困惑気味にロイはハボックの青い目を見つめ返した。
大の大人が、しかも男同士がこんな狭い部屋に二人で住むとはどういう事情があったのだろう。
「私が宿無しでここに居候させてもらっていたとか、そういうことか…?」
「違います。同居人です。あんた、料理ヘタで、そこのキッチンで二人分のメシ作って、とてもじゃないが食えそうにないもん食卓に出したりとか…、あとはそうですね、その後ろの狭いベッドに二人で寝て、寝相の悪いあんたはよく床に落ちて、あちこちに痣作ってた。そうゆーの思い出しませんか?」
ありもしないことを並べてみせる。自分はこんなに平気に虚言を吐ける人間だったのかと初めて知った。
そして、ことさら情感をこめて、ハボックはロイの手を握り顔を近づけて言った。
「俺、今凄く悲しいです。あんたが俺のことを忘れちまうなんて」
闇を溶かしたような瞳がまたたいた。
「俺の名前は、ジャン。ジャン・ハボックです。思い出しませんか」
(思い出さなければいい。このまま、ここで)
それは祈りにも似ている。おろかな男の戯言。
「ジャン…、ジャン・ハボック…」
眉間にしわがよる。ロイは一生懸命思い出そうとしているようだった。
(思い出すな)
これは罪だろうか。あんたが俺の上司じゃなかったら。もし違う出会い方をしていたならなんて、夢のような。
今は何も覚えていない彼を、俺は。
「あんたが忘れちまっても俺は忘れない」
そっと優しくロイを包み込むように両腕に抱きしめた。
耳元に、甘さを含んだ声で囁くように言った。
「俺とあんたは恋人同士だったんですよ。あんたは俺を、愛してた」
記憶のないあんたに、俺の声はどう届くのだろう。
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20060414UP