幸福の檻 18






 仕事の関係で中央の軍法会議所に勤めるマース・ヒューズ中佐が東部に来た。
 ヒューズは大佐の古くからの友人だ。彼らがどんな友情を結びどんな過去が彼らの絆を深めたのかは、他人の俺が知るところではない。だが確かに他の誰もが入り込めない親密な空気が2人の間には流れていて、それはいつも俺の心を波立たせる。

 帰り際、大佐と中佐が話しているのをちらりと聴いた。夕食の話をのんきにしていて、店はいつもの場所でいいか、いやあそこがいいと楽しそうに話していた。



 あの夜から何日たっただろう。
 思い出すと、まだ鉛を飲んだかのように胸が重くなる。本当に馬鹿なことをした。後悔してもどうにもならないが、あの日あのときの自分の心のありようを今でも自分でうまく説明できない。

 悲しかった。信じたくなかった。そして同時に怒りも感じた。だが何に対しての怒りなのかが分からない。俺の想いを決して信じようとしない彼に対してか、あるいは彼の心を開くことが出来ない不甲斐ない自分に対しての怒りか。

 自分をコントロールできなかった。激情のままに彼に手を伸ばしていた。ソファに縫いとめ無理矢理体を開かせようとする俺に、彼は大した抵抗を見せなかったように思う。だが抱き返す腕もぬくもりもなかった。俺の体の下で終始人形のようにされるがままだった。
 あんなのはただの暴力だ。最低だ。

 彼はなぜあんなに酷いことをした俺をいつまでも自分の下に置いておくのだろう。
 まるで何もなかったのだというように接してくる。
 そのポーカーフェイスの下に隠された真実の「彼」がいったい何を考えているのか。俺のことをどう考えているのか。
 もうどうしていいのか分からない。
 俺の想いは、あの日に彼の拒絶とともに終わるはずだった。
 だがいまだに心の中でくすぶり続け、切なさとともに生き続けている。
 このままこの想いは行き場を失い死んでゆくのだろうか。







 夜も少し更けた頃、市内のある酒場に2人の男の姿はあった。
少し抑えた暖かみのある橙色の照明が落ち着いた雰囲気の、どこか望郷の懐かしさを感じさせる店構えだ。離れたところのテーブルでは飲みつぶれた中年の男が連れの若者に肩をゆすられている。
 会話が途切れ、ロイがその様子をぼんやりと見ていたときに不意打ちみたいに声をかけらた。

「お前、少し痩せたか?」

 視線を目の前の友人に戻すと、ヒューズは頬杖をついてこちらをじっと見つめていた。

「いやぁ、なんかほっぺたのとこが少し肉が落ちたかなぁと思ってさ」
「そうか…? そんなことはないと思うが」
「体調良くない? さっきメシもあんまり食べてなかったし、酒も進んでねえし。帰るか?」
「いや、大丈夫、お前の気のせいだ。私はいつも通りだぞ。まぁ、疲れていないとは言わないがな。最近忙しくて気を遣うことも多くてな。勤務時間内にかかってくるお前の娘自慢の長電話のせいで仕事が遅れるせいだ、とは口が裂けても言わんよ」
「言ってるじゃねえか!」
「ははは」
 ロイは笑って見せるがそれも長くは続かない。小さく息をつく友人の姿にヒューズは眉間にしわを寄せた。

「俺の前では無理しなくていいぜ、ロイ。本当にどうしたんだよ」
「………別に、何もない」
「ロイ」
「飲もう、ヒューズ」
 ロイはグラスを手に取りヒューズにもう一度笑って見せた。

「もう長いことずっと、酷く酔いたくてたまらない気分なんだ。もう少し付き合ってくれないか」

 柔らかな照明を受けて黄金色に輝く液体の中を浮かぶ氷が、ロイの手の中でカランと軽い音を立てた。

 何かがある。
 目の前の友人の心を乱す、何か。
 それが果たして何であるのか。

 ヒューズは味を楽しむ風でもなく、機械的に酒を喉に流し込んでいる友人を心配そうに見た。
 別に何もない、と返した彼の頑なな態度から、自分がどんなにしつこく聞き返しても彼は決して喋ろうとはしないだろうと察した。
 この友人は基本的に頑固気質であるということを、それなりに長い付き合いで分かっている。

(素面じゃあ、な)

 酔わせてみるのも、ひとつの手だ。
 酔いつぶれる手前まで飲ませて、誘導すればもしかしたら心に溜め込んだ心情、あるいはもっと別の何かを吐露するかもしれない。

(酒に頼ってみるか)

 何よりも世話好きのヒューズには、常にない、彼らしくないというべきか、そんな様子の友人をこのまま放って中央に帰ることはできそうになかった。
 酒のもたらす効能に期待しつつ自分もグラスを手に取った。

 夜はまだ長い。





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20061020up