幸福の檻 17






 いつもと変わらない朝。
 窓の外には青い空が広がっている。鳥のさえずり。


 ベッドから降り、洗面所へ向かう。
 鏡に映る男の顔。
 私の顔だ。ここ数日食欲もなく、身体も全体的にダルさを感じていて、そのせいか覇気のない暗い顔をしている。目の下に隈も見える。
 さらに視線をめぐらすと、左の後頭部あたりに一房、不自然にはね上がっている髪の毛が見えた。
 ため息が自然に口から漏れた。
 早く顔を洗い、出勤の支度をしないと、もうすぐ迎えの者が来てしまう。間もなく家の前に車が止まり、部下が扉を叩く音が聞こえてくるだろう。

 シャツの合わせ目から微かに覗く、首の付け根の辺りに目をやる。注意深く見なければ分からないような、微かに変色した痕。肌に残る記憶。


 もうあれから何日もたった。あれだけ鮮やかについていた痕も、消えてしまいそうなほどの時間がたってしまった。


 痕をそっと指先でなぞる。

 心が波打つ。

 あの夜の記憶が脳裏によみがえる。
 彼の心の叫びを聞いた。やるせなさ、絶望感をどうしたらいいのか、どこにぶつければいいのか分からなかったのだろう彼は、私に身体ごとぶつかってきた。
 あれがただの暴力だったとしても、忘れたくはないと心が悲鳴を上げている。最後だ。だから許して欲しい。

 忘れたくない。

 心が痛い。あの時自分に向けられた激情を全て受け止めて、この身体に、心に残しておきたいのに。

 彼は私のことなど、じきに吹っ切れるだろう。
 現に最近は職場で私と顔を合わせても、周囲の仲間に違和感を感じさせない程度の自然な接し方をしてくる。視線の合う回数は以前よりもぐっと少なくなり、それが少々寂しい気もするが仕方ないだろう。

 彼は私との間にあった色々なことを、一時の気の迷いだったと気がついたのかもしれない。それでいいと思う。彼はそうして忘れていくのだろう。私のことを、忘れる。


 だが私は忘れない。

 消えてしまう。彼がこの私に残してくれたのに。
 まだ駄目だ。情けないことだが、気持ちの整理がついていない。
 あの男が残した痕。消えて欲しくないと思う軟弱な己の心。


「………っ!」

 消えてしまいそうな痕に爪をたてた。力を入れて引っかく。
 表皮がめくれ、白い肌にまた赤い花が咲いた。

 ぴりぴりとした痛みがその一瞬だけ、自分の心を慰めた。








「ふぁ〜……ねみ〜……」
 大きなあくびをしてジャン・ハボック少尉は椅子の上で伸びをした。
「おいハボック、朝からなんだよ、お前」
 ハボックのデスクの隣に座るハイマンス・ブレダ少尉が呆れた視線を同僚に向けた。
 東方司令部は今日も朝から急いで片づけなければならない懸案を抱えていて忙しかった。
 あわただしく人の行き交う部屋の中で、ハボックだけが我関せずとでも言うようになぜかのんびりしている。
 と、ブレダが何かに気づき、鼻をひくつかせた。
「……ん? お前、酒臭くないか? え、酒だけじゃなくて香水もかすかに……」
「ははは、ばれたか。いやぁ、朝方までいつもの店で飲んでてさ。店のオンナノコが離してくれないんだもん、参ったよ〜」
「おい」
「店に新しく入ったそのコがまた胸がでっかくてさ、俺の体にボインくっつけてくるから酒が進んで進んで。仲良くなって今度デートの約束までしちまったぜ」
 いいよなーやっぱりボイン、などとこぼすふやけた同僚の頭をぽかりと丸めた書類でブレダははたいた。
「バカ野郎。朝っぱらからのろけんな」
「そういうわけで新しいカノジョができましたー!」
「ついこの間失恋だなんだって落ち込んでたのに、お前ってやつは……」
 ブレダは眉間を押さえた。

 この自分の同僚であるハボックは、同性の自分から見てもまあそれなりに整った容貌の、性格も思いやりがあって優しい、女性にはモテる男であることは認めている。
 だが何がいけないのか、付き合いが長く続いたことがないのだ。やれカノジョが出来た、別れたといつもその繰り返しだ。

「仕事が忙しくてカノジョと愛を育む時間がないせい」とはハボック本人の言だが、時間は自分で作るものだと思う。その努力と一生懸命な想いが相手に届けば、簡単に関係が壊れるなんてことはないと思うのだ。
 確かに自分達の仕事は忙しいが、だからといってそれだけが理由なのだろうか?

「……まあ、1日でフラレないようにがんばれよ」
「ん? ああ、サンキュ、ブレダ」


「楽しそうな話をしているな、お前たち」
 部屋の一番奥のデスクでそれまで黙々と仕事をしていたハボックとブレダの上司が書類の束の角をそろえつつ、立ち上がった。
「大佐」
 ブレダが振り返る。
「ブレダ少尉、すまないがこれを至急総務部に届けてくれないか」
「了解です。大佐もハボックのヤツを応援してやってくださいよ。今度こそうまくいくようにって」
 ロイの手から書類を受け取りながらブレダが言った。
「お前も隅に置けないな、ハボック少尉。私も祈っているよ。色男が彼女とうまくいくように」
 部下思いの上司らしい笑顔を見せてロイはハボックを見た。
 視線が合う。
 ハボックも一瞬の間を置いて笑顔でそれに応えた。
「ありがとうございます、大佐。じゃあなるべく残業とかこれから少なめにしてもらえると嬉しいんですが」
「耳が痛い。ブレダ少尉、私と賭けないか? 何日で少尉がふられるか」
「大佐、それじゃあハボックのヤツを応援してやってないですよ…」
「ははは」
「ひっでー……」




 私は今普段通りに笑えているか?






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