幸福の檻 16







「軽い冗談のつもりだった。だがお前が本当に慌てて困っている姿を見て、私はつい面白くて記憶喪失の『ふり』を続けてしまった。1週間もな」

 記憶喪失の、ふり?

 信じられないロイの告白に、ハボックの思考は一瞬停止した。

「そ、んな…こと」
 あるわけない、と続けようとしてやめる。ロイの表情から、彼が嘘偽りを口先に乗せて語ったのではないとハボックには分かったからだ。
 ハボックが内心の動揺のまま口から押し出した声は、みっともなくかすれ、力はなかった。

 記憶喪失のふり。どういうことなんだろう。
 ではハボックの嘘に…、恋人同士だなんていう嘘にどうして彼は乗ったのだろう。

(俺が慌てて困っている姿が面白くて?面白くて部下の自分と1週間過ごしたって言うのか?どんなつもりであんな……)

 ハボックは眩暈がしそうだった。
 眼の前にいるはずなのに、ロイ・マスタングがひどく遠い存在に感じた。手を伸ばせば、捕まえられる距離にいるのに。
 暗い、感情が沈み無機質にさえ見える瞳が今はハボックに向けられていた。白く整った容貌が氷のように冷たく固まっている。決して他人に内側の感情を覗かせまいとする頑なさを見せるときに彼がよくこういう顔をすることをハボックは知っていた。故に、彼にこんな顔をされると、ハボックはもう彼の本心を探る術を持たない。

「……分かりません、全然分かりません、大佐。記憶がちゃんとしていたなら、あんな……、あんなふうに……」

 自分が酷く動揺していることをハボックは自覚していた。ぐるぐるとあちこちが回っているような気がする。頭の中がガンガンと内側から殴られているようで息苦しさも感じる。指先が冷たくなっていく感覚。………なぜ、なぜ、なぜだ。

 ロイはソファに深く沈み、目の前にひざまずいている男を見やった。そして少しの嘲笑と共に再び口を開いた。

「あのときは久しぶりに1週間もの、ゆったりとした休暇をもらった気分だった。お前との恋人ごっこも案外楽しかったよ」
「恋人、ごっこ……」

 ハボックは知らず唇をかんでいた。
 ロイは彼の眉間に刻まれた皺を見て、震えるように息を小さく吸い込んだが、動揺しているハボックの方はそんな彼の小さな仕草には気づけず見落とした。ロイが内心を覗かせたのはほんの一瞬のことで、すぐに元の表情に戻った。
 ハボックのために、自分自身のために、演じきらなくてはならない。

「少尉がどういうつもりで、私たちが恋人だなどという話を持ち出したのか私には全く持って理解できないが…、ああ、少尉は私のことが好きだったと先程言っていたか。寝言だな。まあ、でもあの1週間は楽しかったよ。退屈はしなかった。お前をからかうのが楽しくて、つい調子に乗りすぎた感は否めないがな。まさか部下の男と閨を共にする羽目になろうとは流石の私も予想できなかった」

 聞きたくない、とハボックは思った。だが身体は動かなかった。
 ロイの声が遠くから聞こえてくるようだった。

「お前も私の身体を随分好きにしてくれたな。ああ、勘違いしないでくれ、責めているわけではないんだ。こんな男の身体でも、少しはお前も楽しめたようだからな、それは良かったと思っているよ。だがな少尉、あんなのは本当に一時の気の迷いだよ。お前が私を愛しているなんてことがあるものか。私が思うに、日々蓄積された私に対する不満や、仕事に忙殺される毎日のストレスが歪んだ形であらわれたのではないかな。鼻持ちならない上司を引き摺り下ろして跪かせたい、などという征服願望は誰にでも」
「ちょっとすみません。黙ってください大佐」

 突然強い口調でハボックがロイを遮った。
 低い、半ば唸るような声。知らずロイの背中に小さく震えが走った。
 ロイの独白を聞いているうちにハボックの心の底に熱い塊が生まれていた。それは怒りに似ていた。悲しみも覚えた。

 どうしてこの人は。

「それ以上は聞きたくないんで、口閉じてもらえませんか」
「……ハボック少尉」
「あんたは『ごっこ』で好きでもない相手とセックスできるんですか」
「随分青いことを言うな」
「あれだけ言っても、俺の気持ちは信じてもらえないんですか。俺だって悩んだ。こんな気持ち、不毛で報われやしない。何か違う気持ちと取り違えているだけだって何度もそう自分に言い聞かせてきた。でも駄目だったんだ。あんたをいとおしく感じるこの気持ちは、誤魔化せなかった」
「思い込みだ、目を覚ませ少尉。私にはお前の将来が見えるよ。女性と結婚し、たくさんの子供に囲まれた幸せそうな家庭がな。いっそ軍を辞めて田舎に引っ込んだらどうだ。土にまみれた、そんな生活や平凡さがお前には似合うよ」
「何ですか、それ。あんたに俺の何が分かるって言うんですか。そんなふうに、勝手に決めつけるのはやめてください。あんたが今の俺の居場所を作ってくれたんだ。俺はあんたに会えたことをとても幸運に思ってる。そしてあんたを好きになったことを後悔なんてしていない」
「確かにお前はいい部下だよ。頭は多少足りないが、それをカヴァーできるフットワークの軽さと身体能力を持っている。不甲斐ない私によく応え、支えてくれていることには礼を言おう」
「大佐、俺が言いたいのは……っ」


「これ以上、私の内側に入り込むな」


 ロイの声がハボックの心を氷の刃で刺した。


「私はお前にそれを望んでいない。お前と私は上司と部下。それ以上の関係を私は望んでいない」
「………っ」

 こんな風に拒絶されるかもしれない、ということをハボックは今日この家の門をくぐるまで何度も何度も頭の中で思い描き、覚悟してきたつもりだった。
 もとより自分の気持ちをロイが受け入れてくれるなんてことは万が一にもありえないことなのだと分かっていたつもりだったのに。

 なのに、本人の口から、眼の前で直接言われるとやはりどこかでまだ覚悟なんて出来ていなかったのだと気がついた。
 頭の中が真っ白になる。
 はっきりと拒絶されても、まだ何かにすがりつきたくなる。
 みっともないくらいに、うろたえた自分をさらしながらも、まだ何か、自分と彼を繋ぐもの、この会話を続けられるものがないか、必死になって。

 ハボックはロイの表情のどこかに綻びがないか、見つめた。
 どこかに、あの日の彼がいないか……。
 不意に目頭が熱くなった。息が苦しくて呼吸がうまく出来ない。この自分が他人の前で泣くなんて信じられなかった。心が昂ぶってうまく自分をコントロールできない。

「俺…、俺には分かっています。さっき、あんた泣いてたじゃないですか。あの1週間のあんた、あんなに俺に甘えてくれた、優しい、温かいあんたを覚えています。あれが全部、全部嘘だったとは思えない。演技だったなんて…っ」
「お前がどう思おうと勝手だが、あれは演技だ。ああいう私が好みならば尚更諦めるんだな。あんな私など本当はどこにも存在しないのだから」
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ、大佐っ」

 硬く、冷たい口調で自分の愚かな想いを突き放す。
 その黒い瞳は堪える感情に揺れてはいないか。

 だがその瞳も血液が透けそうなほどに白くて薄いまぶたの裏に隠れてしまった。
 その口から出たのは、2人のあの日々の繋がりを遮断する、決定的な言葉。凍える響きをもって。


「もうこの件でお前と話すことは何もない。帰ってくれないか」



 ぷつん、と切れた。




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20060825up