幸福の檻 15






 今、なんと言った?


 俺は、大佐の、ことが、好き、でした。
 あの、1週間、とても、幸せ、だった。


 好きだった?幸せだった?そう言ったのか、この目の前の男は。

「ハ…ボック……?」
 ロイは信じられないものを見るような目でハボックを見上げた。涙で彼の輪郭がにじんで見える。彼の青い瞳から真意を読み取ろうと懸命に目をこらすがうまくいかなかった。
 だが、言葉に心が震えた。
 今まで懸命に築き上げていた自分を護るための壁が、その言葉だけで簡単に崩されていくのを感じた。

「……私をからかっているのか?」
「からかう?どうしてですか」
「なぜお前が私を好きなんだ。そんなこと、絶対に、ありえない」
「ありえない?」
「ありえない。お前はいつも彼女が出来ないのは私のせいだと文句を言っているじゃないか。付き合うなら胸の大きな女性がいいといつもバカみたいに言っているじゃないか」
「そうですね。確かにいつも俺、そう言ってますけど」
 ハボックは彼の座るソファの前に膝をついてロイと視線を合わせた。

「いつからだったのか、もう覚えてはいないけど、大佐へのこの気持ちは本当です。男に告白されるなんて気持ち悪がられても仕方ないけど、俺はあんたのことが好きだった。もうずっと気になってて仕方がなかった。自分の気持ちを自覚したのは、そう、あの神様がくれたとしか言いようがない夢のような1週間でした。だから俺は、とても幸せだったんです。あんたと恋人同士として過ごせたあの……」
「言うな!聞きたくない!もうやめろハボック!」
 ロイは叫ぶようにしてハボックの優しい告白の言葉をさえぎった。
「それは嘘だ!誰も、誰も本当の私を好きになんかならない!私が誰かに愛されるなんてことはないんだ!」
「本当の大佐?それはどういう……」
 ロイの口許に自嘲的な笑いが浮かんだ。


 目の前のこの、青い目の男に逃げ場をふさがれ、壊されていく自分をもう止められなかった。
 あの時なぜ、あんな愚かなことをしたのだろうか。
 しかし今更後悔してももう遅いのだ。
 もう自分が何をしたかったのかも分からなくなってきている。

 最初のきっかけはいつもの、ほんの悪戯心と気まぐれだった。

 なのに彼はその冗談に真剣な目で応えてきた。そして何をどこでどう間違ったのか、それからはこちらが予想だにしていなかった事態に進んでいった。

 彼のその『言葉』を聞いたとき、最初はからかわれているのだと思った。記憶のない私をここぞとばかりにおちょくりたいのだなと信じて疑わなかった。
 そちらがその気なら私も乗ってやろう。予想外の私の反応にヤツは慌てるに違いない、その想像はロイの心をくすぐり楽しませた。そしてその後、彼はいつもの明るい態度と表情で「やだなあ、冗談ですよ」と垂れ目の優しげな顔をくしゃりとして笑い、それで終わるのだと思っていたのだ。
 ちょっとした戯れ。仕事に忙殺される毎日に、ほんの少しのスパイスがあってもいいのではないかと思ったのだ。

 だがそんな甘えが、結果的には不自然な1週間を作り出すことになってしまった。

「……お前は本当の私を知らないからそんなことが言えるんだ。私は国を変えるという崇高な志を持って生きているが、その基盤となる私はとても醜く、ずるくて汚らわしい人間だ。先の戦役でたくさんの人を、殺した。年寄りも女子供も、殺した。おびえた顔で私を見上げていた、殺さないでと涙で懇願する人もいた。そんな人々を私は殺した。あの当時死んでゆく者全員の顔を残さず覚えておこうと思っていた。なのに今はもうほとんど思い出せないんだ。ひどい男だろう」

 淡々と、なんでもないことのように話すロイを見つめ、だがハボックは彼の心の悲鳴を聞いたような気がした。
 戦争は人の心に大きな爪あとを残す。
 先の戦火はロイを酷く傷つけたが、今のロイを支えているのもまた、その戦火の苦しみの中で模索して生まれ出でたものなのだろう。
 ハボック自身はイシュヴァール戦役を体験していない。
 もしあの場に共にいることが出来ていたならばと、そう思わずにはいられない。彼の心の痛みの幾らかを共有できるのではないかと埒もないことを思う。
 だが現実は容易くはない。戦争を体験したものとしていないものの差が、自分とロイの間には大きな溝となって確かにあるのだ。
 でも。だからと言って。

「……本当の大佐って何なんですか。じゃあ本当の俺はどんな人間だと大佐は思ってるんですか。俺だって軍人だ。大佐ほどじゃないにしても人を殺したことはある。他人に銃を向けたことが何度だってあります。俺は殺した人間の顔なんていちいち覚えちゃいませんよ。大佐の理屈から言ったら俺だって『酷い人間』なんじゃないんですか」
「違う、違うよハボック」
 ロイは力なく首を左右に振った。
「私のそれはもっと罪深い。一方的な虐殺だった。国のため、人々のために、私は己の学んだ錬金術を使っていたつもりだった。だがあれは……、あれは違ったのではないかと今なら分かる」
「……戦争だったんです。大佐一人がそんなふうに苦しんで、背負わなければならないことなんですか」
「あの戦いが終わったあの日、私はこの国を、ありようを変えたいと強く思った。そのために自分に何が出来るのか、これから何をすべきなのか。それだけを思い今まで生きてきた。そうすることでしか私の存在を許す理由がないのだと思ったからだ」

 ハボックは返す言葉を持たなかった。
 彼の内側の、傷ついた深淵。この人は今までどれだけ自分を責め続けてきたのだろう。
 国を変えたいと声高々に言うその真意の裏にあるのものが利己的な野心だけだとは思っていなかった。それだけであるならばハボックは勿論、ホークアイやその他の者達だって彼の元で働きたいとは思わなかっただろう。

 心の内側にこんなにも重たいものを抱え込んでいたなんて知らなかった。部下の目の前でうなだれて涙を流すこの人なんて、誰が想像できるだろう。彼は、ロイ・マスタングはいつだってその二枚目な容貌にシニカルな笑みを刻んで順風満帆な人生を送っている人間なのだと思っていた。地位も名誉も欲しいもの全て、何の不自由もなく手に入れることが出来る人だとそう思っていたのに。

「……ハボック」

 ロイは疲れたように目を閉じた。口に出して話したことで少し落ち着いたのか、頬を伝った涙の跡は乾き始めていた。

「あの1週間は、私には過ぎた日々だったよ」

 1週間。ハボックとロイが恋人として過ごしたあの日々が。

「私はまた、新たな罪を犯してしまった。お前を騙した。私の愚かな甘えだ」

 騙した?
 ハボックは意味が分からず問い返した。騙したのは自分のほうだ。記憶喪失だった彼に偽りの関係を教え、そして。

「大佐?」
「嘘をついていた」
「嘘?」

 ロイはゆっくりとまぶたを開いた。まだ少し濡れた黒曜石の瞳がハボックの青空のようなそれに合う。

 私はこの曇りのない空を汚してしまったのではないか。

 そんな思いが不意に心の中に湧き上がってきて苦しくなった。彼に甘え、つかの間寄りかかった自分に後悔した。
 本当は誰にもあの1週間の真相を打ち明けるつもりはなかった。今も言うべきではないと頭の隅で冷静な声がする。だがなぜか言葉は止まらなかった。どうにでもなれという、半ばヤケクソな気分になっているせいかもしれなかった。そんな気持ちにさせたのは自分を追いつめた目の前の男だ。


「お前に頭を蹴られて記憶喪失になっただなんて笑える話だったな。だがな、ハボック、私は実際には記憶など失わなかったのだよ」

 え、とハボックが小さく息を呑んだ。


「嘘をついたんだ。軽い冗談のつもりだった。だがお前が本当に慌てて困っている姿を見て、私はつい面白くて記憶喪失の『ふり』を続けてしまった。1週間もな」





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20060731up