幸福の檻 14
引き寄せた身体はハボックの広い胸に簡単におさまった。艶やかな黒い髪の毛に鼻先をうずめ、彼の匂いを胸に深く吸い込む。
ああ、彼の匂いだ。あのときのままだ。
いとおしい、自分を愛し応えてくれた、そして自分が愛した彼の匂い、感触。
そう思うと駄目だった。心の奥底から次から次へとロイへの想いがあふれてきた。胸がつまって、苦しくて、ハボックは力いっぱいロイを抱きしめた。
もうずっと、ハボックはこうしたくてたまらなかった。
「は…、放せ、少尉……っ」
「……嫌です」
「頼むから放してくれ、ハボック!」
叫ぶように言ったロイの肩が小さく震えた。
はっとして、ハボックは腕を開放した。その拍子に水滴が床にぽたぽたと落ちてにじんだ。
「…っ………」
よろめくようにして再び背後のソファにロイは沈む。
「大佐、泣いて……?」
床に落ちたのは、ロイの双眸からこぼれ落ちた涙だった。
「違う、泣いてなんかいない」
目じりをぐいと手のひらでぬぐい、ロイは悔しそうに鼻水をすすった。だが涙はまた黒い瞳をにじませる。ロイは何度も何度もそれをぬぐった。
「大佐、そんなにこすると真っ赤に……」
「うるさい!見るな!」
見るなと言われても……。
ハボックは目の前の光景にどうしたらいいのか分からなくて戸惑う。
あの、ロイ・マスタングが目の前で泣いている。
自分の上司で、イシュヴァールの英雄で、自分が尊敬している誰よりも強いこの人が。こんなふうに自分の内側を簡単に他人に見せるような真似はしない人のはずなのに。
部下の前で子供のように泣く姿なんて想像も出来なかった。
これでは、まるで。
(記憶を失っていた時の大佐みたいじゃないか)
ハボックはロイの前に膝をつき、ロイの顔を覗き込んだ。視線が合った途端、ロイの表情が目に見えて分かるくらいにこわばる。
「大佐……」
手を伸ばし、涙でぬれる頬に優しく触れた。
「私に触るな!」
すぐに手をはらわれた。
動揺している彼を目の前にして、逆にハボックは頭の中がすっと落ち着いてくる。
「大佐は覚えてないふりしてるけど、本当は覚えているんでしょ?俺と一緒に過ごした1週間のこと」
ロイは目を見開いた。喉が鳴った。
その反応でハボックは自分の言ったことが外れていないと確信する。
「あんたは俺に何も聞いてこない。あの夜、記憶を取り戻したあの日、俺たちは同じベッドで寝てたしお互い裸だったし、数時間前までセックスしてたわけだからあんただってその……、身体に違和感とかあったはずなのに……」
「知らない!言うな、聞きたくない!」
ロイは耳をふさいだ。
聞きたくない。聞きたくない。これ以上はもう。
なのに。
「やっぱり覚えているんですね」
ロイは、言葉もなくただ目の前の男を見上げた。
大きく開いた瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「なら、俺はあんたに謝らなきゃならない」
「あ…やま、る……?」
「はい。謝れば許してもらえるなんて、そんな都合のいいことは思っていません。でもちゃんと言っておきたい」
ロイの唇の端がひきつった。
彼は笑おうとしているようだった。だが失敗している。
「私は、お前に謝られるのか……?」
「大佐?」
「私は…、私はもうあの日々のことには触れられたくなかった。誰にも…お前にも、心の底に沈めて、2度と見せたくなかった。愚かな私をそっとしておいて欲しかった。そのほうがお前にとっても都合がいいと……。だからこんな風に、お前と話なんてしたくなかったよ」
やはりあの日々を、ロイは思い返したくもないくらい嫌悪しているのだ。
だとしたら、こうして自分と顔をつき合わせていることだって、かなりの苦痛を感じているはずだ。
(俺は最低だ。大佐の気持ちを考えもせず、こうやって強引に家まで押しかけて。謝りたいのだってただの自己満足じゃないか。大佐を不快にさせているだけだ)
恋人として過ごした、1週間。
ハボックにとってはこの上なく幸せな日々だった。
だがロイにとっては、忌々しい、忘れたい日々だったに違いない。部下にだまされて自分の身体をいいようにされていた。何を好きこのんで男と恋人同士だなどと。記憶がなかったせいとはいえ、冗談ではないだろう。
「……何もなかった、何も覚えていない。それで本当にいいんですか。そんなんで、あんたは俺を許せるんですか。この先も俺はずっとあんたの側にいるつもりだ。俺の存在がどんなにあんたを不愉快にさせるかって、そんなこと気にもしないで俺はあんたの側に居続けますよ」
「不愉快……?」
それが、ロイの優しさなんだろう。
私情で部下を切り捨てたりしない、器の大きさなのだろう。
だがハボックにとっては残酷な仕打ちだ。
あの1週間で、ハボックの中のロイの存在は以前のものとは違ってしまった。
抱き返してくれる優しい身体を知ってしまった。
なかったことになんか、したくない。
でもこのまま、彼の側に居続けることの辛さも分かってしまった。
だから。
「やめます。やっぱり俺は謝りません。あんたにどんなに酷いことをしたか、その罪ごと俺はこの先ずっと忘れないでいます。卑劣で最低な男だったと、あんたは俺に腹を立てていい。もっと責めればいい。そしてあんたのいらない記憶ごと、俺を消してしまえばいい。どうにでもしていい。あんたにはそうできる権利があります」
「な、にを言っているんだ、ハボック……?」
「俺を許さないでください。あんたがそんな風に我慢する必要なんてないんだ。適当な理由をつけて俺をどんな風に処分してくれてもかまいません。僻地への異動でも除隊でもかまわない。あんたの目の届かないところへやってください」
でも最後にこれだけは言いたい。
この気持ちだけは、あんたを想う気持ちだけは。
「俺は、大佐のことが好きでした。あの1週間、とても幸せだった」
大きく見開かれた黒い瞳から、また1粒2粒と涙がこぼれ落ちた。
綺麗な涙だなとハボックは思った。心は不思議と凪いだ湖面のように落ち着いていた。
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20060725up