幸福の檻 13
「……まだ帰ってきてないか……」
ロイは今夜「ご婦人とデートだ」と言っていた。
案の定マスタング邸の窓からは、家の主人がいれば当然灯っているはずの明かりがもれていない。不在だ。
ハボックはひとつ息をついて門扉をそっと押し開いた。そして扉を背にして座り込んだ。空を見上げれば、少し欠けた月が雲間からおぼろに覗いている。
(帰ってくるかな、大佐)
月を見ながらぼんやりと、そう思った。
なんとなく、なんとなくだが今夜は逃げられそうな気もしていた。
彼がこのまま今夜はここに帰ってこないかもしれないという予感。
昼間執務室でハボックが一方的に今夜の約束をとりつけたと、ロイは微妙な反応だった。イエスともノーとも言わない。しかし、ハボックから視線を外したその顔色が白かったのは気のせいではないだろう。
彼は自分を避けている。決定的だった。
(でも今日がダメでも、俺はあきらめない)
決意する。彼と話が出来るまで、自分は何度だって通い続けるだろう。
今夜は長い夜になりそうだな。そう思いハボックはジャケットから煙草を取り出そうとした、そのときだった。
突然ぱっと玄関の明かりがともった。びっくりしたハボックが立ち上がろうとするよりも早く扉が音もなく開く。
「!?」
無遠慮に、ガツンとハボックの腰に扉の端がぶつかった。
握っていた煙草の箱が手から滑り落ち、地面に落ちる。
そして。
驚いて振り向いたハボックが目にしたのは、開いた扉の向こうでぽつんと立っている、この家の主人の姿だった。
「た、大佐!?帰っていたんですか!?」
「………」
ロイはハボックの足元あたりに視線を落としている。その顔は無表情だった。
2人の間に沈黙が流れる。
「あの……、大佐?」
息のつまるような雰囲気に落ち着かなくなって、ハボックは声をかけた。それでもロイの視線は上がらない。
「………あがれ」
互いの間に流れる気まずい雰囲気に窒息しそうな息苦しさをハボックが感じ始めた頃、ぼそりと地を這うような低い声でロイが呟いた。
上司の家の中にまで足を踏み入れるのは、初めてだ。
どの部屋も電気はついていないようだった。
廊下を通り客間へ通された。そこでやっと家の中に灯がともる。
ソファとロウテーブル、壁に1枚の絵が、そして部屋の角に観葉植物が置いてある。シンプルな、というよりはなぜか殺風景な部屋に感じた。
「適当に座れ。……ああ、ここに人を通すのはしばらくぶりだから、少し埃っぽいかもしれん」
「や、気にしないんで大丈夫です」
久しぶり、なのか。
ハボックは意外に思った。友人が訪ねてきたりはしないのだろうか。たとえばあの、セントラルにいるロイの親友のマース・ヒューズ中佐が。
気にはなったが、ハボックはロイにそのことを訊かなかった。
今日、ハボックが彼と話したいのは、自分と彼のことだからだ。
ハボックはソファに腰を落とした。自分の家にある安物のそれとは明らかに違う座り心地だ。なんとなく落ち着かなくて浅く座りなおした。
いったん客間を出て行ったロイがしばらくしてから戻ってきた。その手には2本のグラスと酒のボトルが握られていた。
「ワインでいいか。つまみはあいにく何もないのだが」
ハボックは思わず腰を上げた。
「た、大佐!俺は別に飲みに来たわけじゃないです……!」
上司に気を遣われている。慣れないことにハボックは内心ひいいと叫んでいた。
そんな慌てるハボックを見、ロイは彼の対面に腰を下ろしながら少し笑った。
「私が飲みたいのだよ。付き合ってくれないか」
まあ座れとロイはハボックを目でうながし、ワインの栓を抜く。
赤い液体をグラスに注ぐと、それをハボックの前へとすすめた。
ロイが口にするのを見て、ハボックもそれを口に運んだ。喉ごしのよい、くせのない芳香が口の中に広がった。
ロイはいつものようにじっくりと味わいながら飲んでいるのだろうと思って、ふと彼に視線をやったハボックはびっくりして目をむいた。
なんと、ロイのグラスは空だったのだ。
自分のグラスと同じようになみなみと葡萄酒は注がれていたはずだ。それが短時間のうちになくなっているということは………。
「大佐!あんたちょっと一気飲みはやめましょうよ!」
ロイは何も答えずに再びグラスを満たそうとする。
「これ高級なやつでしょ!?そんな水みたいに飲んだら勿体無いですし、身体にも悪いですって。それにあんたは酒にそんなに強くないんだし……」
「飲ませろ」
がぶ飲みしようとするロイの手からなんとかしてハボックはグラスを取り上げた。すると、むうと眉間にしわを寄せたロイは、今度はテーブルの上に置いてあるハボックが飲みかけたグラスに手を伸ばそうとする。
「ダメですって」
2つのグラスを遠ざけられたロイは今度はボトルを手にしようとしたが、それも素早くハボックにとられてしまった。
「ハボック!」
ロイは目の前の男を忌々し気に睨みつけた。
「どうしたんですか、大佐。落ち着いて……」
「お前と素面で話せというのかっ」
「え………」
ロイはうなだれてソファに深く沈んだ。手のひらで目元を覆い、唇をかみ締める。
素面では話せない?
意外な言葉にハボックは固まった。
ハボックにとって、ロイ・マスタングという自分の上司は、自分の信念に従って常に真っ直ぐ前を向き、弱音など決して吐かない、尊敬すべき誰よりも強い存在だった。
その彼の口からこぼれた思いがけない言葉に、ハボックは戸惑いを隠せない。
かみ締められた唇に、彼の内心の葛藤が見え隠れしているような気がして。
(ああ、なんだろう、今重なった)
目の前で肩を落としている上司。
そして、少し甘えて自分に寄りかかってきた、数日前まで自分の恋人だった今はもういない幻の人。
そうだ。あまりにもかけ離れていて別々の人間のような気がしていたけれど、2人は同じ人なのだとこのとき初めてハボックは意識した。
そう思ったら彼を急に抱きしめたくなった。
いとしい、という気持ちが急激に心を満たしていった。
ハボックはその衝動のままに、彼に手を伸ばした。
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20060712up