幸福の檻 11






「どういうことですか?」


 ロイ・マスタングの執務室。
 ハボックは目の前に座っている上司の言葉に眉をはねあげた。
 激しい語気と共に足を1歩踏み出してしまったのは、ハボックの動揺を表していた。

 ロイは机にひじを突き顎の前で手を組みながら、気色ばむハボックを冷静に見上げている。その頬には微笑さえ浮かべて。

「おいおい、何をそんなに怒っているのだね、ハボック少尉」
「大佐の送り迎えは護衛官である俺の仕事です。大佐の身辺警護は最重要任務ですよ。なのにその俺を外して他のヤツをあてるだなんて、いったいどういうことなんですか」
「誤解するな、護衛官の任を解くと言っているのではないよ。確かに護衛官は私を護ってこその護衛官だが、お前の仕事はそれだけではないだろう。ホークアイ中尉とも話したんだが、お前は使い勝手がいいせいか、私もどうもお前に甘えてしまうところがあるようで、それでお前に必要以上に負担をかけてしまっているのではないかと思うのだ。わざわざ送迎のためだけに、私につき合わせて残業をさせるはめになったりだとか、そういうのはお前にとっては本当は必要のないものだろう」
「必要ですよ!どんなに遅い時間になったって、大佐を家までお送りするのが俺の仕事です!」
 ロイはそこでおかしそうに少し笑った。
「残業につき合わせているときには、お前は散々私に愚痴をこぼしているじゃあないか。やれ、今晩はやっとできた彼女とデートだったのにこれじゃあもう間に合わない、またフラれる、だとか、たまには早く帰してくださいよ、これ残業手当出るんですか、とか文句タラタラなくせに」
 ハボックは、グ、と口の端にくわえていたタバコを噛み潰した。
 いつも自分が言っている言葉だ。自分がいつも女性に振られる、ダメダメな人間だということを意図的にアピールして場を和ませたりしていた。
「少しはお前の仕事も減らすことが出来る。そうしたら自分の時間も増えるだろう。彼女と過ごす時間だって以前より多く作れるだろうし、お前にとってはいい話だろう?」
「それは……」
 自分の時間が増えて、彼女と過ごす時間も多く…、確かにそうだろうが、しかし。

 ハボックは目の前でにっこりと笑っている上司を見つめた。
 いつもと変わらない笑顔…のような気もする。
 強さと、自信と、揺るぎない信念を内包した、ロイが部下に対して見せる笑顔。
 ああ、でも自分が見たいのはこの笑顔ではないのだとハボックは唐突に思った。
 彼と共に過ごした1週間。彼の目が純粋に自分だけに向けられていたあの時の、彼のはにかむような綺麗な笑顔を今でも覚えている。
 だが今では、あれは自分の願望が見せた幻だったのではないかとさえ思い始めているのも確かだ。

 あのロイ・マスタングが自分に甘えるだなんて。
 自分の腕の中で安心しきったように眠りにつくだなんて。
 そんなことが現実にありえるはずがないじゃないかという冷静な声が脳裏に響くのだ。

 つなぐ言葉を見つけられずに、ハボックとロイの視線が合わさったまま、しばし無言の時間が流れた。

 ロイの送迎を他の者に割り振る。
 なぜ突然そんなことをロイが言いだしたのか、理解できなかった。
 あれから、ロイはハボックのことを特別に意識している風には感じられなかった。ハボックが拍子抜けするぐらい、2人の間にはぎこちなさも、わだかまった空気も何もなかった。会話が若干少なくなったくらいだが、それにしたって以前から必要以上に馴れ合う関係だったわけではないので、傍から見れば、不自然さを感じない程度のものだろう。
 それなのに、なぜロイは自分を……。

(俺を遠ざけたいのか?)

 態度にこそ表さないが、本当は自分と一緒にいることにストレスを感じているのだろうか。
 この、今2人の間に漂う、肌を刺す痛いくらいの沈黙に耐えているのはハボックだけではないのだろうか。

 だが、ロイはおかしそうに笑っている。笑って…、彼が先に視線を外した。
 椅子の背にもたれかかり、大きくひとつ息を吐いた。

「少尉、これは決定事項だ」
「俺は…、俺は納得していません」
 力ない言葉が口から漏れた。
「話は終わりだ。もう下がっていいぞ」
「大佐、待ってください。俺は…っ」
「下がれ」

 トーンの低い、さめた声がハボックの言葉をさえぎり、動きを止めさせた。その強い声とは裏腹に、ロイの顔は下に向けられていて表情は見えなかった。もうハボックと話をする気はないようで、手元の書類を引き寄せ、目を落とす。

 明らかなその拒絶にハボックは背筋が寒くなった。
 このまま引き下がったら、彼と自分の間にある見えない厚い壁が、永遠にそのまま存在し続けるような気がした。

 自分は、あの記憶を失っていた間の、共に過ごしたロイを、幻にはしたくない。強くそう思った。

「……大佐、あんたと話したいことがあります」
 ロイは少し顔を上げて、ハボックを見上げた。まだいたのか、という顔をしている。
「なんだ」
「ここでは話せません。今晩、あんたの家に行きます」
「……今夜はご婦人とデートの約束がある」
「あんたが帰ってくるまで待っています」
 ロイは秀麗な眉をしかめた。
「他の日では駄目なのかね」
「帰って来るまで待っています、大佐」
 そう言うと、ハボックはロイの執務机に手を突いて、身を乗り出した。
 くわえていた煙草を口から外して、目の前の男に手を伸ばす。
 一瞬、燃やされるかなという危惧が脳裏をよぎったが、彼を今夜逃さないためにも、ハボックの本気を伝えておきたかった。

 ハボックの指がロイの顎を捉える。
 そして、かすめるだけの、軽いくちづけ。
 ロイの顔が少し揺れた。
 お互いの熱を、ほんの少しだけ交し合う。

 顔を離すと、ロイの大きく見開かれた黒い目に視線を合わせ、ハボックは笑って言った。
「……今夜、逃げないでくださいよ」




next


20060619up