幸福の檻 1








何もかもを捨てて

ただあなただけが残って

あなただけがすべて

ああ、なんて幸せな偽りだろう












 いつもと何ら変わらない、ありふれた日のありふれた午後。
 東方司令部司令官ロイ・マスタング大佐の執務室には眠気を誘われるようなうららかな日差しが降り注いでいた。
 夜勤明けだが作成し提出しなければならない書類を眠い目をこすりながら書き上げたジャン・ハボック少尉は、それを片手に執務室の重厚な扉を軽く叩いた。中からの返事を待たずに部屋に入り込む。
「大佐、報告書ー…」
 正面にあるマホガニーの机の上、うずたかく積み上げられた書類の向こう側にあるはずの、上司の仏頂面が見当たらない。
(…仕事をほっぽりだしてまたどこかでサボってんのかよ、あの人…。)
 口の端にくわえたままの煙草を軽くかみ締めてからため息をつく。
 この報告書に目を通してもらってサインをもらわないことには帰れないのに。
 ハボックは机を回り込み窓辺に立った。そこから見える、抜けるような青い空を眺める。
 確かにこんなにいい天気なら、こんなに狭い部屋の中でいやな書類と向き合っているよりも、外に出て昼寝のひとつでもしてみたくなるかもしれない。しれないが、しかし…。
「……?」
 ふと、机の上、書類の山と山の間の谷間に一枚、ぺらんとした紙が不自然に置かれているのが目に付いた。端のほうに何か…犬?のような動物の絵がぐりぐりと書き込まれた紙。その上のほうによく見慣れた、少し癖のある字で短い文章が書かれていた。


『さがさないでください。ロイ・マスタング』


 
こんな置手紙を残して職場放棄をする上司って何だ。
 ハボックは犬?の落書きを見てからそれを裏返し、その紙が昨日同僚のブレダが書いていた休暇届の申請書であることを確認し、またため息をついた。
 とにかくどこかで油を売っているであろう上司を迎えに行かなければならない。
 さて、どこにいるだろうか…。



 いつもの裏庭あたりにいるんだろうなと思いつつ、道すがら大佐お気に入りの書庫なども覗いてみた。大佐の姿は見えなかったが、足跡は残っていた。本を数冊借りて持っていったそうだ。
 ハボックは少し頬を染めながらそう教えてくれた女性士官に軽くお礼を言ってから、裏庭に足を進めた。
(あのコ、胸もデカくていい子だけどな…)
 あの女性士官が自分に好意を持ってくれていることにハボックは気づいていた。かわいいし気立てもいいし、カノジョにするには申し分ない相手だろうと思う。
 しかし、ハボックには今、彼女よりも気になって仕方がない人がいた。
 その人は、自分の上司で年上でおまけに同性の男で。
 仕事だって気分でサボるし、女性の噂の絶えない超タラシでふらふらしていてどうしようもない人なのに、どうしてだかいつからだったのか、気になって仕方がなくなって、いつも目で追っていた。
 多分、おそらく自分は彼のことが…。

 がつんっ
「うぎゃっ」

「!?」
 何かがつま先に当たった。
 続いて悲鳴が聞こえる。
 軍靴に鈍い衝撃があって、あわててハボックは目線を落とした。
 物思いにふけっているうちにいつの間にか司令部の裏庭についていた。低い茂みを掻き分けて足を踏み入れたところで…何かを蹴ったようだった。

「あ…」

 蹴った「何か」を認めて、ハボックは一瞬かたまった。
 ハボックの足元には、頭を抱えてうずくまっている黒髪の…。
「たっ、大佐!!」
 数冊の本を枕に、芝生の上で惰眠をむさぼっていたのだろうロイ・マスタング大佐、つまり自分の探し人で上司で…現在自分の1番気になっている人を、ハボックは思い切り足で蹴飛ばしてしまったらしい。しかも頭を。
「……」
 ロイは声もなく後頭部を押さえている。かなり痛かったらしい。
「た…大佐、あの、だいじょうぶで…」
「だいじょうぶではない!」
 顔を上げたロイは目に涙をためてハボックを睨みあげた。
「痛いぞ!突然なにをする!」
「何って…、あの、スミマセン。こんなところであんたが寝てるとは思わなくて。いつもは、ほら、もうちょっと奥のあっちのほうで寝てるじゃないですか。今日は何でまた…」
 ロイが訝しげにじっと自分を見つめているのに気づき、ハボックは言葉を切った。
「大佐?」
「……」
 濡れたような黒い瞳が揺れるようにしてこちらを見つめている。どこか、頼りないような、すがるような視線。
 彼はこんな目をする人だっただろうか。

(なんだか様子がおかしい?)

「大佐、どうしました?俺おもいっきり蹴っちまいました?頭以外にも痛いところが?」
 ロイの前に膝をついて近くで顔を覗き込んだ。ロイの周囲には書庫で借りてきたと思われる上製本が数冊芝生の上に散らばっていた。自分がこの固い本ごとロイを蹴飛ばしたのなら、その拍子に本の角などで彼の体のどこかに傷をつけたのかもしれない。
「大佐?」
 こちらを見るばかりで答えない自分の上司に、ハボックはいよいよ心配になってきて、右手でそっと彼の肩に触れた。
 ぴくりと、その肩が揺れた。
 ロイは肩に触れているハボックの大きな手を見て、それからゆっくりと目の前の彼の顔をもう一度見てから小さく口を開いた。消え入りそうな小さな声だった。
「たいさ、というのは私の名前か?」
「はい?」
「おまえは誰だ…?私は…」
「大佐、なにひとをからかって…」
 切れ長の黒い瞳にはいつもの強気な、自信に満ち溢れた光はない。
 今はただ不安げに揺れている。
「って、冗談じゃなく…?」


「私は、誰だ?」


 青い空が目にしみて、こんなにいい天気なのに。
 ハボックはロイの肩を抱く手に力を入れた。そのとき、彼は確かに悪魔のささやきを聞いた。





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20060414UP