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戸惑いの春 2





 ザックスに連れられて訪れた店は、ともすれば見落としそうなほどに小さな看板が建物の外壁にかけられただけで、それに気がつかなければそこで商売をしていることなど分からないような店だった。簡潔に言えば「え、ここ店なの?」と疑うくらいまるで外装は民家だった。
 建物の内部も、機械や冷たく硬いもので溢れかえっているこの街に似つかわしくないほどに木のぬくもりや古びた懐かしさを意識した空間で、その雰囲気は数年前に飛び出した故郷をどこかクラウドに思い出させた。

 何日かぶりにクラウドと顔を合わせたザックスは少し不自然なくらいに上機嫌で、それちょっと頼む料理の数多すぎなんじゃないとこちらが不安に思うほどに、ぱっぱと店員にオーダーを告げてから、表面が少しざらざらした感触の木製のテーブルの向こうで正面からじっとクラウドを見つめてきた。いつものようにその視線を受け止めるのにクラウドが躊躇うのは…仕方がない。彼の胸にはある決意があるからだ。

「元気だったか。何も変わったことなかった?」
「………うん」
 やはりクラウドはどうにも気まずくて俯いたまま首を縦に小さく振った。
 狭くなった視界の隅でザックスが動いたのを感じる。クラウドの顔を覗きこむように身体をわずかに前に倒し、二人の間の距離が少しだけ縮まった。
「そうか? 今日はなんだかお前口数も少ないし…うーん、顔色も何となく悪いような…」
「そんなことないよ。おいしいものいっぱい食べられるって楽しみにしてたんだから」
 クラウドは不審に思われないようにと慌てて顔を上げ、笑顔を作った。でも頬が引きつっているのが自分でも分かった。
「そっか。それならいいんだけど…、ん?」
 不意にザックスが言葉を切って眉をしかめた。
 何の気負いもない自然な仕草で指をクラウドの方に伸ばし、そっと金色の前髪を持ち上げる。そうするといつもはほとんど隠れている白い額があらわになった。
 肌に直接触れていないのに、ザックスのその指先の熱を感じたような気がして、クラウドは動揺した。
 目を見開いたまま固まる。指一本でさえ動かせないほどに緊張した。

 すぐ目の前に、青く揺らめく瞳が、ある。
 視線はぶつからなかった。ザックスの目はクラウドの顔の上方に向いていた。

「どうしたんだよ。おでこ、赤くなってる」
 クラウドの額、右のこめかみの毛のはえぎわ辺りが筆で線を引いたような形でわずかに赤くなっていた。こんなに薄暗い照明の店の中、しかも髪の毛で隠れて見えにくいはずの場所の微かな傷をザックスは目ざとく見つけたらしい。
 クラウドは言われて少したってから、その傷ができたいきさつを思い出した。今の今まで忘れていた。
「あ…、うん、ちょっと昼間に。前を歩いていた同僚が振り向いたときに銃のグリップが当たって…」
「えっ、危ねえな」
「ううん、別に構えてた銃とかじゃなくてホントにただぶつかっただけなんだ。その…俺がぼけっとしてて……」
 クラウドはそこまで言うと急に下を向いて体ごと頭を少し後ろに引いた。それがあからさまに髪に触れる手から離れようとする動作だったので、さすがのザックスも気づいて怪訝な顔をした。
「? なんだよ」
「………別に」
「お前ホントに今日なんかおかしくね?」
「……」
 その時、店員が料理を運んできた。小ぶりの鉢にこんもりと盛られた季節の野菜の和え物、芳ばしい湯気を立てたソテー、石ころのようなでこぼことした表面の小さなロールパンが幾つも重なっているバスケットなどがテーブルの上に並べられる。
 漂ってきた食欲をそそる匂いにザックスの意識がそれたのを感じて、クラウドはホッとした。
 本当は心臓がおかしなくらいバクバク言っている。ここが薄暗くてよかったと思う。きっと自分の顔はおかしなくらい色が変わっている。多分耳まで真っ赤になっている…。
 無意識にテーブルの下で固く握り締めていた掌が汗ばんでいた。

 ……ほんの少し、彼に近くで見つめられただけで。近くに存在を感じただけで。
 こんなに自分はまだ彼を意識しているのに気がついて。気がつかされてクラウドは戸惑う。
 このあと彼とさよならしようって、決めてきたのに。

「お、うまそう! クラウド、なんか今日は色々あったのかもしれないけどさ、おいしいモンたらふく食えば、そんなの忘れて、また明日から頑張ろうって気になれるって。だから元気出せよ、どんどん食おうぜ」
 ……どうやらザックスは、クラウドの様子がおかしいのは、仕事でポカをやったかなんかで落ち込んでいると受け取ったらしい。
「……別にそんなんじゃ」
「まあまあまあ、とにかく食ってみ?」
 ザックスは目の前の料理を小皿に取り分け、それをクラウドの前に置き、自分の分も同じように用意すると、手を合わせ「いっただっきま~す」と元気に声を上げると早速口にそれを運んだ。
 口にほおばった物を豪快に咀嚼しながら、ザックスはクラウドに笑って見せた。
「んまい! ほれ、クラふろ」
 食べろ食べろとゼスチャーでクラウドを促す。口の端から何かはみ出てるよ…とクラウドは少し呆れつつ、フォークを手に取り、適量を口の中に運んだ。
 鶏肉と野菜のソテーは少し濃い味付けだったが、じわりと舌に広がる旨味はなかなか美味しかった。まぶしてある砕いた木の実がいいアクセントになっている。
 クラウドの表情の変化に気づいたのか、ザックスが笑った。
「な? 美味いだろ」
「……うん」
 美味しいもののおかげか、素直に微笑んで頷けた。
「こっちも食べてみ。俺この間来た時にこれ食べてすっげえ感動したんだよ。もろおふくろの味って感じで懐かしくてさ、母ちゃ…おふくろのこと思い出したりしてちょっと感傷的になっちまったりな。ここの店主が俺の故郷と同じ出身かもしくは母ちゃ…じゃなくておふくろのこと知ってんじゃないかって勘ぐった……」
 クラウドが口許を押さえてぷっと吹き出したのを見て、ザックスがばつが悪そうに目を眇めた。
「…なんで笑う」
「別に言いなおさなくてもいいのに」
「何が」
 クラウドの言わんとしていることは分かったが、あえて聞きなおさずにはいられないザックスだった。
「別に「母ちゃん」でも「お袋」でもどっちでもいいじゃないか」
「………」
 ザックスは唇を尖らせた。そんな表情をすると、いつもは凛々しく整った顔が二、三歳若く見える。
「…だって何かちょっとカッコ悪いっつーか…」
「カッコ悪いかな?」
「……ちょっとでもなんつーかこう、カッコよくありたいってさ…」
「…? ザックスは充分カッコイイと思うけど」
「………」
 ザックスはフォークを持っていない方の手で首の裏を掻きながら、視線を横や上に忙しなく動かしたあと、また唇を尖らして小さく唸るように言った。頬が心なしか赤い。
「……お前には負けるよ…」
「?」
「…つまり好きなヤツの前ではちょっとでもカッコよくありたいなっていう、そーゆー男心があってさ…、でもお前みたいに天然にさらっとそーゆーこと言われちまうとなんかもう敵わねえって…」
 そのあとも何かぶつぶつと続けて口の中でザックスは言っていたが、クラウドの耳までは届かなかった。
 それよりもさらりと言われた『好きなヤツ』という言い回しにクラウドはどきりとした。
 そういう風に彼に言われることを…、素直に嬉しく感じた自分にクラウドは戸惑う。


 バレンタインの日に告白されてから今日までの一ヶ月間、どう彼のその想いに応えればいいのだろうと悩み続けたことのその答えが、呆気なくその瞬間にクラウドの心の中にすとんと落ちてきたような気がした。
 彼に好かれていることが嬉しくて、そして自分も彼のことが好きだという、簡潔な答え。ちっとも難しいことじゃなくて。
 恋人になれば関係は変わる。その変化で何かを失うかもしれない、でも新たに何かを得ることができるかもしれないということに気づきもしないで、一歩でさえ踏み出すことに怯え、同じ場所に留まってぐるぐると考えていた。
 だってどう考えたっておかしいと思った。
 彼が自分を好きだなんて、信じられなかった。
 誰からも好かれる彼が、自分の持っていないものを何でも持っている彼が、こんな自分のことを好きだなんて。
 でもこうして側にいさせてくれる、許してくれることが嬉しかった。


 改めて今こうして彼を目の前にして、ああ、やっぱりダメだな、とクラウドは思う。
 きっとこの後、自分は彼に別れなんて告げられない。

(だって一緒にいたい)

 少しでも彼に近づきたいと。彼のようになれたらいいといつも思っていた。
 でも彼はいつも自分の欲しい言葉をくれて、そのままでお前はいいよと言ってくれる。それが嬉しかった。
 ありのままの自分を受け入れてくれる彼の側は居心地がよすぎて。
 だから気にならなかったのかもしれない。いつも人の部屋に許可なく入り浸って、人のことなんてお構いナシでくつろぐだけくつろいで帰っていったりする彼の勝手さにも、いつもの自分ならば冗談じゃないと怒り出しそうなことなのに許していた。

 好きだった。
 彼と一緒にいたかった。
 楽しかったから、嬉しかったから。

 でも今は彼の考えていることが分からなくて迷っている。
 一ヶ月前から分からなくなっている。
 今日の夕方、見も知らない人の口からだけれど、この耳で彼のことを聞いた。
 ザックスが彼女となかよくデートしてるの見たって言っていた。
 ああ、やっぱりなという思い。
 そうだ、当り前のことじゃないか。以前に付き合っている女の人のことを本人の口から聞いたこともあった。そういう気配を感じたことだってあった。今更驚くほどのことじゃない。
 一ヶ月前のあれは…冷静に考えれば鼻で笑えるぐらいおかしなことだったような気がしてきた。

(ザックスの本命が俺で? その子からしか今年はチョコレート欲しくないからなんて俺のとこに来て…どんな三文芝居のシナリオだよ。キスだって…、俺にはキスは大切で特別なことだけど、彼にとっては挨拶程度にできるようなことなのかもしれない。俺にはそうでも、彼にとってはさほど意味のある行為じゃなかったのかも…)


 ザックスは俺の目にだって文句なくカッコよく見えて、女の人にモテて。
 一方、俺は何の取り柄もないつまらない人間だ。
 彼がどうしてそんな俺なんかに愛を囁くというのだろう。
 何がどうなったって有り得ないことじゃないか。
 有り得ないだろう?


(…何で俺、そんなことに今まで気づかないで一ヶ月も馬鹿みたいに悩んでいたんだろう…)

 つきん、とクラウドのみぞおちの辺りに鈍い痛みが走った。
 ストレスのせいか、ここ二、三日食欲もなく、体調も芳しくなかったが、胃の辺りに異常な気持ち悪さを感じた。

 ザックスが自分にした告白云々は冗談だった…としても、しかし一方で疑問も抱く。
 一連の告白ややりとりのことを、クラウドは未熟で馬鹿な年下の自分のことをザックスが単にからかって面白がっているのだろうと考えていた。でも実際にこうして本人に会い、彼の裏表のない性格、その言動に触れると、彼がそんなことをして面白がる人間ではないということも分かるのだ。そのことがまたじわりじわりとクラウドの胸の内側を黒く塗りつぶしていく。

 彼は意味もなく人を騙すような人じゃない。
 でも自分を好きだという言葉は嘘だ。
 じゃあ何なんだ? どんな目的がある? 何のために?

 …だけど、とクラウドは思う。自分はザックスの側にいたい。はっきりと今、その気持ちに気がづいた。強くそう思う。
 彼のことが好きだから。友達の好きかそれ以上の好きかなのかの区別は依然としてまだ自分でもつかないけれど。
 どんなに理不尽な扱いを受けてもきっと。騙されても、馬鹿にされてても、側にいたいと思う。
 そのためには彼の本心なんて知らないまま、気づかないふりをして、何も聞かずにいればいいのだろうか。


 ホワイトデイのプレゼントは用意していない。けれど告白の返事、首を縦に振れば、ザックスの側にこれからも変わらずいることができるのかもしれない。
 それとも、そんな返事をクラウドがしたら彼は驚いた顔をして困ったように「あれは冗談だったんだ。まさか本気に取るなんてなあ」と笑うだろうか。
 ホワイトデイの日に一緒に食事をしようという約束を自分に取り付けたのも、告白の返事を貰おうとかお返しのプレゼントを貰おうとかいう深い理由なんて特別にはなくて、ただ単に今日という日が空いていて、彼が誰かと食事をしたかっただけなのかもしれなくても。
 そういうときに自分を思い出し、選んでくれるのなら、それでいい。





「どうしたんだよクラウド。全然手も口も動いてないじゃんか。口に合わねえか?」
 ぼんやりと考えに耽っていたクラウドが口許に料理を運ぶ回数が少ないのに目ざとく気づいたザックスが、心配そうに顔を覗いてきた。
 クラウドは静かに首を横に振った。
「…ううん。おいしいよ。ちゃんと食べてる、ほら」
 笑顔を作り、クラウドはさっきよりも少し多めに冷め始めたソテーをフォークにのせて食べて見せた。口の中で何度かそれを咀嚼し…不意に顔を俯けて黙り込んだ。口の動きも止まる。
「………」
 クラウドは無言でフォークをテーブルの上に置くと、その手で自分の口許を押さえた。
「クラウド、どした?」
 クラウドの様子がどこかおかしいとザックスも感じ取ったようだ。
「………」
 ザックスは腰を椅子から浮かせて、テーブルの上に乗り出すようにして、更に近くでクラウドの顔を覗き込んだ。クラウドは目を見開いたまま固まっていて、その額には脂汗も浮かんでいて顔色も悪い。
「クラウド?」
「………っ」
 青ざめた顔でクラウドはぎゅっと目を瞑り、ぶんぶんと首を横に振った。
 明らかに尋常でない様子にクラウドの肩に手を回して、何、とザックスが問いかけようとする前に、クラウドが勢いよく立ち上がった。そのまま凄い勢いでよろめくように、途中他のテーブルや椅子に足を引っ掛けたり身体をぶつけながら、店の奥にある扉の向こうに消えていく。訳が分からないまま、慌ててザックスもその背中を追った。









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