戸惑いの春 3





「どう? 少しは楽になったか、クラウド」
 ザックスは自分の背中にとしりとかかる重みに向かって小さく声をかけた。
「……ん」
 弱弱しい返事が左耳のすぐ近くでするのに、ほっと息をついて、ザックスは背負った彼の身体を少しだけ揺すって抱えなおした。
 少し離れたところからまだ眠らない街の喧騒が聴こえてくる。
 空が闇色に塗りかえられてもう大分時間が経つが、まだ大通りにはたくさんの人が行き交っていた。
 ザックスはそれを避けるように大通りから一、二本奥に入った路地を背中に連れを背負って歩いていた。季節は春だというのに夜はまだ肌寒さを感じるほどで、背中の温かみが心地よい。

「……ごめん、ザックス」
 無言でしばらく歩いていたら、ぽつりと背中の温もりが呟いた。今日何度目かの謝罪の言葉。
「それ、何度目だよ。だからもういいって。謝んのは俺なんだからさ」
「…ザックスは…悪くないよ。俺が…ごめん…、お店の人にも悪いこと…しちゃったし……」
 これもさっきから何度となく二人の間で繰り返されている会話のやり取りだった。
 ゆっくりと、時々言葉を切らしながら消え入りそうなほどに小さな声で喋ろうとするクラウドに、ザックスは立ち止まって自分の左肩の上にもたれかかるるようにして顔を俯けている彼に目をやった。ぼやけた金色の髪と少し覗いた額が見えた。距離が近すぎてよくは見えない。
「調子悪いからあんま食べられないとかそういうのをさ、俺がクラウドに言わせづらくさせてんだろ。なんかまだまだダメだよなって俺思った」
 クラウドはそんなことはないと顔を俯けたまま頭を左右に振った。それが余りにも一生懸命な仕草だったので、ザックスは嬉しくて笑ってしまった。



 数刻前、食事の途中に突然席を立ち、店の奥へと走っていったクラウドの後を追ったザックスがその先で見たものは、思いもかけない光景で彼をかなりびっくりさせ、うろたえさせた。
 クラウドの顔色がよくなかったのも、食が余り進んでいなかったのも、体調が悪いせいだったのだ。
 駆け込んだ扉の向こうは化粧室。便器に顔を突っ込んでクラウドは胃の中のものをほとんど吐き出してしまった。
 こうなれば以後の食事を楽しむどころではない。
 ザックスは店の人に差し障りないように適当な説明をし(連れの体調が悪くて云々…さすがにトイレで派手に戻しました、とは言えなかった…)、テーブルの上の食事はさげてもらった。少し落ち着いたクラウドを椅子に座らせてしばらく休ませた後、ヘロヘロな彼を背負ってザックスは店を出てきたのだった。
 店で休んでいる間、クラウドは終始申し訳なさそうにしていた。店の人にも「せっかく美味しい料理を用意していただいたのに…」と青い顔で謝り倒し、ザックスにも謝りながら「俺はいいからあんたは食べて」とずっと言い続けた。



 彼の様子にちゃんと気づいてやれず、悪いことをしたなとザックスは思う。
 それと同時に、クラウドにとって自分はまだ気をつかうような相手で、何でも言いあえるような関係ではないのだなということが分かってしまい、少し落ち込んだ。自分が彼より年上だとか仕事では上司だとか、プライベートで会うときには余りそういうことを意識していなさそうに見えるクラウドなのだが、やはりその一線は二人の間に確実に横たわっていて、クラウドは一定の距離を自分の中で課しているのだろうか。

 ザックスは背中に張りつくクラウドの温もりに、何となく切なさを覚えながら言葉を続けた。
「俺さ、調子いいだろ。無神経って人に言われることもある。あんまり深く考えんの苦手って言うか、そんで気がついたら周りのヤツに迷惑かけてることとかあったり、振り回してたりっての結構あってさ。お前は慎重派って言うか、よーく考えてから動くタイプじゃん。物事に受身っぽいとこもあるかな、俺とは正反対で、だから……」
 ザックスの肩口でクラウドがもう一度首を横に振った。
「…ザックスはそれでいいんだよ。俺の……」
 何かその後にぼそぼそとクラウドは続けたが、声が不明瞭でザックスは聞き逃した。何、と聞き返したが答えない。その代わりにザックスの首から胸の前に回されていたクラウドの両腕が動いて、それが自分に縋りつくように力がこめられたので驚いた。
「クラウド?」
「………」
 クラウドはそのまま動かず、また何も答えようとしなかった。
 思えば今まで一度もクラウドのほうから直接的な接触の働きかけを求められたことなどなかったようにザックスは思う。ツンツン跳ね上がった月からこぼれ落ちたような色の髪に手を突っ込んで彼の形のいい頭を撫でるときも、指をつなぐときも、ふざけた振りをして彼の腰を自分の方へ抱き寄せるときも、いつも自分から手を伸ばすだけ。触れると彼は、いつも緊張して身体を硬くする。他人の体温に慣れていないんだろうな、とその都度思い、その反応が嬉しいようなもどかしいような気分になるのだった。
 そんなふうに人との接触に抵抗がありそうな彼が、自分の背中にしがみついてくれているというのは確かに嬉しことなのだが……。


「クラウドあのさ…そんなに……、」
「あれ、ザックス?」
 ザックスが微妙にそわそわした様子で切り出したとき、不意に通りの向こう側から別の男の声が割り込んだ。
 クラウドの肩がびくりと揺れて、回された腕に更に力がこめられた。顔を完全に隠すようにザックスの肩に額が押し付けられたのが分かった。
 二人の前方、すぐ先には少し広めの道路があって、照明が当たったその明るい場所から抜け出てきた一人の男がこちらに歩いてくる。よく見ればそれはザックスの友人で同期のソルジャー・クラス2nd.のカンセルだった。
「丁度よかった、これから俺の部屋でみんなでビデオ上映会しようかって言ってて今おまえにも電話しようかって思ってたとこなんだ。ほら、この間言ってたサマンサ・ヘインズのヤツ。偶然こんなとこで会うなんて…って、あれ、悪い。彼女連れ?」
 こんなとこで友人に会うとは思っていなかったので、ザックスは内心焦った。
 別に背中にいるのは彼女じゃなくてクラウドでお前もよく知ってるやつだよ、と説明してもよかったのだが、肩に押し付けられたクラウドの額から、背全体から伝わってくる彼の体温が先程よりも熱い気がして、その熱に気を取られて、ザックスはカンセルに曖昧に笑って見せた。
「う…、うーん、悪いけど今日はパス。こいつを送っていく途中だから」
「なんだったら、彼女一緒でもいいけど…何、寝てんの? おんぶなんかして」
 カンセルが背中のクラウドを覗き込もうとしたのを、さり気なくザックスはかわして身体の位置をずらした。
 それを見て、カンセルがにやりと笑う。一瞬だけだったが、カンセルにはザックスの背中に収まっている人物のその耳が赤く染まっているのが見えたのだった。
 ザックスに向かって、しかしわざと背中のクラウドにも聞こえるような声の大きさでカンセルは言った。
「そのコ、満更でもないみたいだけどさ、ほどほどに…、ああそうか、今日はホワイトデーだもんな。でもザックス、送り狼はダメだからな。本命のあいつに告げ口するぞ」
「ばっ、な、何言い出すんだカンセル!」
「やっぱおまえにゃ本命への操立てなんて似合わな……」
 そこでふと、カンセルの顔から笑みが消え、言葉が切れた。しかしそれにザックスは気づかず、顔を赤くしてぎゃんぎゃん吠えた。なんてことをクラウドに聞かせるんだと焦る。
「お前の中で俺はどんなにいい加減なヤツなんだよ!お、お、送り狼とか…っ」
「………」
 間を置いてから、やっとザックスもカンセルが真剣な表情で自分の肩の金髪を見ているのに気がついた。
 カンセルは無言のまま右の眉だけを上げてザックスの顔をうかがい、指でクラウドを指差した後、声には出さずに口の動きだけで「もしかして」と動かした。もしかして、気のせいでなければ、その見覚えのあるツンツン頭は…。
 ザックスは顔を赤くしたまま眉間にシワを寄せ、憮然とした表情で両の瞼を強く瞬いて見せ、ゼスチャーでそれに答えた。
 途端にカンセルが目を見開き、やばいという顔になる。やばいのは俺だとザックスも叫びたかったが、お互い言いたい言葉は後日に取っておこうということで、飲み込む。賢明な判断かどうかは別として。
「じゃ、じゃあな。俺行くよ。クラ…そのコによろしくな。ビデオはダビングしてそのうち回すから心配すんな!」
「お、おう! じゃあな、カンセル」
 カンセルは手を振ると、退散とばかりに再び明るい路上へと急いで戻っていった。
 そしてその場に残された二人は……少なくともザックスは非常に気まずい思いでクラウドを背負い、ぽつんと立ち尽くしていた。背中の温もりは動かない。だけどしがみつく力もゆるまない。
「………」
 言い訳…というか弁解というか、とにかく何かクラウドに言った方がいいよな、とザックスは一生懸命言葉を探したが、何をどういえばいいのか迷う。
 とりあえず、これだけは言っておこうと口を開いた。
「ク、クラウド、送り狼なんてそんなこと俺全然考えてないから、安心しろな。あいつ、面白がって変なこと言いやがって困……」
「いいよ」
「や、あいつって結構性格……って、え? 今な、に」
「ザックスがそうしたいんなら、いい」


 ………は。

 そ、それってつまり、送り狼になってもいいって?
 嘘、嘘嘘嘘、まさか、そんな。


 耳元に返ってきたクラウドの返事。
 ザックスは自分の耳を疑った。にわかには信じられず、ぎこちない動きで肩先のクラウドに目をやる。でもやっぱり距離が近すぎて、見えない。
 自分にしがみつく腕がかすかに震えているのに気づいた。さっき返ってきた声も…少し揺れていたように思う。

 クラウドの言葉が意味するもの、背中に感じる体温、その気配が。
 ザックスの心の奥深いところを刺激し、揺り動かした。


 見てみたい、と思った。
 彼がどんな顔を今しているのか。
 もどかしいと思った。
 体温を感じられるくらい近くにいるのに、彼に思うように手を伸ばせないことが。


 衝動に突き動かされるまま、ザックスは背中のクラウドを地面に素早く降ろすと、頑なに俯いたままの彼の顔を上向かせた。白皙の頬は赤く染まり、何かを堪えるように引き結ばれた唇、唇の赤味に目を奪われる。薄青い凍った湖面のような色の大きな瞳が潤んで…。


 いいのか、本当に?
 信じられない。逸る心を抑え、ゆっくり顔を近づけると、目の前の彼の瞼もまたゆっくりと閉じられていく。
 信じられない。優しく表面をかすめるだけの口付けを交わす。おずおずとクラウドの手がザックスの頬に触れてきた。
 その指先の熱に促されるように、今度はもう少し深く唇を重ねた。
 何度か浅く深く求めているうちにクラウドの背中を壁際に追いつめた。



 すぐ横にある赤茶けた扉には「関係者以外立入り禁止」というプレートが打ち付けられている。クラウドは唇が離れたときにふと場所を思い出し、路地の向こう側、明るい通りの建物の様子を頭の中に一瞬だけ描いた。表通りは派手なネオンを撒き散らして飾り立てているが、その建物の横っ面はくたびれ汚れた壁を見せているということが何となくおかしかった。

「なんで…? 突然お前…」
 キスの合間、嬉しそうにザックスが問いかけてくる。クラウドが何かを答える前に、また何度も唇をふさがれる。
 呼吸をするタイミングがうまく掴めなくて、クラウドは苦しさに喘いだ。大きな掌が腰や背中を行き来する。互いの体が密着する。腰の奥がむずむずして落ち着かなくなるような…こんな感覚は知らない。でも酔いそうに、熱い。不快ではない。
「……今日、ホワイトデイだろ。だから俺……」
 熱に酔いそうになりながら、でも心の片隅は冷たいままなのが分かる。
(さっきカンセルさんが言ってた。『本命のあいつに告げ口するぞ』って。ザックス、本命ちゃんといるのに、何でこんなこと俺に出来るの)
 ちゃんと口に出して本当はザックスに聞きたい。でもできない。怖い。
 怖い、怖い。怖いのは…本当に怖いのは。


 傍にいさせてもらうためには、どうしたらいいんだろうって、さっきからそのことばかり考えている。


 ぽたり、と地面に大粒の雫が落ち、乾いた路面に滲みこんだ。クラウドがそれをぼんやりと見つめていると、またひとつ落ちる。
 今夜は満天の星空だ。冷えて澄んだ空気の中で星が瞬いている。深夜になっても灯りが煌々と輝くミッドガルの街の隅から見上げても幾つかその輝きを視認できる気持ちのよさで、地面を濡らした雫が天から落ちてきた雨粒だとは考えられなかった。
 また、ぽたりと落ちる。

「…え…、クラウド…?」
 呼ばれて視線を上げる。キスで乱された呼吸は大分落ち着いてきた。
 クラウドは微笑んだ。
 少し身を屈めて自分を覗き込んでいるザックスの顔が目の前にある。
 男らしい頬が微かに赤く染まっていて…、でも眉毛が下がって何かに困惑しているような顔だ。なぜだろう、とクラウドは思う。
 どうしてそんな顔をするんだろう。
「…なんて顔してんだよ、お前……」
「……?」
 それはクラウドが聞きたいことだ。
 ザックスが眉毛を下げたまま手を伸ばし、クラウドの頬に優しく触れた。彼の指や感触を感じたときに、クラウドはやっと自分の頬が濡れていることに気がついた。地面に落ちたのは自分の涙だったことを知った。

「………っ」
 涙を自覚したら、体の奥から何か重たいものが恐ろしい勢いでこみ上げてきて、胸をつまらせた。涙がどっと溢れる。苦しくて、どうにかなりそうでクラウドはその場にしゃがみこんで身体を丸めた。
 なぜ涙が止まらないんだろう、なぜ、なぜ…どうして自分は泣いている…? 苦しい、苦しい…。
「クラウド、おいっ、クラウド!?」
 ザックスに顔を見られたくなくて、クラウドは更に身体を丸めて顔を両腕の中に隠した。
 泣き止まなければと思うのに、彼を心配させているじゃないか。でも涙腺が壊れてしまったみたいに涙が次から次へと湧いてきてどうしようもない。
「ごめんクラウド、俺ちょっとがっつきすぎて驚かせちゃったか? あっ、もしかして気分また悪くなっちまった? 大丈夫か?」
 違う。声に出して言いたいのにできなくて、唇を噛み締めて無言で首を横に何度も振った。
「ごめん、ごめんなクラウド。俺嬉しくてつい…、悪い、ホントごめん!」
 謝らないで欲しい。
 ザックスは何も悪くない、俺がおかしいんだ。勝手に涙流して、全然悲しくなんかないのに。
 呆れないで、傍にいて、一緒にいて、ここにいて…。
 頭の上で、すぐ近くで自分を心配する大好きな優しい気配がする。

 こんな気持ちは初めてで
 これがもし恋だというのなら
 なんてつらいんだろう

 先が見えない でも





 クラウドの気持ちが落ち着くまでザックスはクラウドの前に膝をついて待っていてくれた。
 その間ずっとザックスは子供を宥めるようにクラウドの頭を撫でていた。その優しい感触がクラウドの涙腺を更にゆるめ、ぐずぐずな時間を長めたのだが、当のザックスはそのことに気づかない。
 そうしてようやくクラウドが顔を上げたころには、もう日にちをまたいだ時間になっていて、クラウドのふやけた目と赤くなった鼻に、天使の吐息のような柔らかく優しいキスをザックスは送った。クラウドは恥ずかしさに俯いた。
「送り狼にはならないけど、今夜はお前、俺んちに連れ帰るからな」
 手を繋がれる。
 ザックスの部屋…この後のことを一瞬で色々想像してしまったクラウドだった。さっきは何かに突き動かされるように「送り狼になってもいいよ」なんて自分でも大胆なことを言ってしまい…、今改めて思い返してみると後悔…ほどではないにしても、何であんなことが言えたんだろうと不思議に思う。
 繋がった指先からクラウドの緊張が伝わったのだろう。ザックスは苦笑した。
「何にもしないよ。俺のベッド貸すし、俺は違うとこで寝るから安心しな。お前今日ちょっと色々アレで、俺の目の届かないとこにいてほしくないから、見てたいだけ。心配だから」
「………」
「イヤか? 信用してくんない?」
 ザックスがそう言うと、クラウドは慌てて首を横に振った。
 大きく目を開いて口は真一文字で頬を染めて、必死な形相で答えるクラウドの様子にザックスは頬を緩めた。本当にかわいい。抱き締めたい欲求がわいたが、またびっくりさせて泣かれても困るので、ぐっと我慢する。
「そいじゃ、行きますか」
 自分よりも細く白い手を引いて歩き出す。数歩歩いたところで、少し後ろにいたクラウドがザックスの横に並ぶように前に出た。上目遣いでちらりと隣のザックスの顔を覗く。視線が合うとザックスは笑ってみせた。途端にクラウドは顔をそらす。でも髪から覗く耳とほっそりとした首筋が赤く染まっているのが見えた。
 なかよく並んで歩きながら、夜の街を同じねぐらへと向かう。
 つないだ指に自然と互いに力がこもって、頭の隅が痺れるような甘い時間だった。










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