風がびょうびょう吹いていた。

「…ここ、勝手に出てきちゃっていいの…?」
「いいのいいの、ばれなきゃ!」
「それってばれたらダメってことじゃん…っ!」
「すっげえいい風吹いてんな〜っ」
 風の音に負けそうになるから自然に大声になる。二人とも近くにいるのにほとんど叫んでいた。
 どこにいるのかというと、本社ビルの屋上だ。ヘリポートがあるだだっ広い吹きっさらしだ。
 今日は天候が荒れていて、頭上には灰色の重たい雲が一面に横たわっている。雨粒がいつ落ちてきてもおかしくない様子だった。

「仕事、時間は平気か?」
 彼が振り向いて、今更なことを聞いてきたので笑ってしまう。
「うん、今日はもう終わりだから」
 先ほど一緒にエントランスを歩いていた同僚には、後日色々と事情を聞かれるかもしれないな…と思い出し、少し憂鬱になる。

 それにしても本当に風が強い。風向きが定まらない。右から左から吹いてきて、髪の毛があっと言う間に乱され、視界にばさばさと入り込んで鬱陶しく邪魔をする。それを指先で押さえて避けながら、俺は足下に視線を落とした。
 最近彼に対して感じていることを、一度ちゃんと彼と話さなきゃいけないと思っていた。
 今がその時なのかもしれないと思う。

「…あのさ、他の人に変だって言われない?」
「何が?」
「あんたの友達に…」
「?」
 声がやっぱり風で届きにくいのか、彼は俺のすぐ横まで戻ってきて顔を近づける。距離が近すぎてちょっとどぎまぎしたが、ここで体を引くのは余りにもあからさまで失礼かなとも思ったので、後ずさりしたがっている自分の足を踏ん張ってぐっと我慢する。
「…その、いくらなんでもやりすぎだって言われてるんじゃないかなって。ザックス、いちいち人に飛びつくし大袈裟だし、それがあんたなりのコミュニケーションの取り方なのかもしれないけどさ…」
 なぜかそこで彼が目を丸くした。
 それからぎこちなく視線を外し、首の後ろをがりがりと指でひっかきながら落ち着かなげに口をもごもごさせる。
 何か俺、変なことを言っただろうか。
「…えーと、その…だな…」
 ちらりとこちらを見て、彼の視線はまたそらされる。
「………ない。だって……てない…し」
 ごにょごにょごにょ。
「?」
 風に邪魔されるし、声は小さすぎるしで聞こえない。
 聞き返したら、なぜだか彼はちょっと怒ったような顔になった。おまけに俺の気のせいでなければ、頬も微妙に赤くなっている。
「…だから、おまえ相手にだけだし…っ」
「…え?」
「別に誰彼構わず飛びついてる訳じゃねえよ。俺だっていくらなんでもそんぐらいの――」
 俺だけ…?
 驚いて思わずぽかんと口を開けて彼の顔を凝視していたら、それに気がついた彼が苦虫を噛みつぶしたような渋い表情になる。
「俺だけってなんで…?」
「それはさっきも言った。おまえが逃げるからだ」
「俺もさっき言ったよ。あんたが追いかけてくるから逃げたくなるんだって」
「だって捕まえとかないと、おまえなんでか逃げるし」
「逃げたくなるような勢いなんだよ、あんたの突進は!」
 きっとこのことに関しては、いつまでたっても堂々巡りで、ふたりがふたりとも納得する答えは永遠に得られないだろう。鶏が先か卵が先かという議論と同じように。

「…でも俺だけって…本当に? …なんで…」
「んー…」
 彼は照れたようにそっぽを向きながら言葉を続ける。
「なんでかなぁ。自分でもよくわかんねえけど、なんかおまえを見つけると体が勝手に動いちゃうんだよな。さっきも言ったとおり、会えて嬉しいからってのもあるけど、それだけじゃないような気もするし。うーん…、焦り? なんか捕まえとかないとって焦ってる感じもあるような…、いやいやマジで自分でもホント訳わかんねえんだわ」
 訳が分からないのはこちらのほうだ。
「…聞いたらますますわからなくなった…」
 やはり少し彼との距離が近すぎるのが気になる。
 額を手で押さえて溜息をつくふりをしながら、なるべく彼からわざとらしく見えないように細心の注意を払って半歩程後ろに下がった。

「…ていうか、その『俺だけ』っていうのを聞いて、俺はどう反応すればいいのか分からないんだけど。嬉しがればいいの…?」
「やっぱり迷惑だったりするか…?」
「迷惑っていうか…出来れば突進したり飛びついたりしないで、普通にしてくれたら嬉しいんだけど。あんたが俺のことを友達だと思ってくれてるなら、あんたの他の友達と同じように俺に接してほしい」
「……」
 彼は変な顔をする。
 そんな顔をされると不安になる。
「…ダメかな。友達とか…、ごめん、調子に乗ってた。あんたの他の友達と俺を同じようにだなんて…」
「ちがうよ」
 けれど、やけに強い口調で、続けようとしていた言葉を遮られた。

「ちがう」

 彼の手が俺の両肩を抱く。
 はっとして顔を上げると、ひどく真剣な彼の瞳とぶつかった。
「これだけは言える。おまえは俺の、特別だ」
「と…くべつ…?」
「逃げられたら必死に追いかけて、何が何でも捕まえたくなるヤツなんて、少なくとも俺のトモダチの中ではおまえ一人だ。特別だ」
 とくん…と胸が波打つ。
 トクベツ。
 その響きになんだか背中がむずむずする。
 友達の中でも特別。
 彼が俺を追いかけたくなるという理由がいまいち理解できないが、「おまえだけ」だとか「特別」だと言われて、悪い気はしなかった。
 自分と違って交友関係の広い彼のたくさんの友人の中で、俺は何かが違うんだろうか。
 彼に正面から真っ直ぐに見つめられて頬が熱くなる。

「だから特別なおまえに逃げられるとつらい。俺のこと嫌いで避けてるわけじゃないよな…?」
「き、嫌いなんて、そんなこと…っ!」
 首をぶんぶん何度も横に振る。
 そんなことあるわけない。

「だったら…」
 ほ、と安堵の息を吐き出した彼が俺の肩を抱いたまま腕を引き寄せる。
 ふうわりとした温もりに包まれて…彼の胸に抱きしめられたのだと理解するのに数秒を要した。

「これからは逃げないでくれ。頼む」
「…ざ、ザックス…っ」
「おまえは俺のそばにいろ」

 風の強さなんて気にならなかった。
 今がいつで、ここがどこかなんてどうでもよくなる。
 胸のどきどきがますます加速して…。
 なんだか…なんだかすごい告白をされたんじゃいないだろうか。
 そばにいてほしい、なんて。
 彼にそんなことを言ってもらえるなんて、まるで夢みたいだ―――。

 魔法にかけられたみたいに頭の中がじんわりと痺れて動けなくなってしまい、されるがままに彼に抱きしめられていた。
 広くて逞しい胸…憧れてやまない存在。
 こうやってすっぽりと彼の腕の中に自分はおさまってしまう。いやでも自覚させられる自分と彼との体格差はやっぱり悔しい。いつか自分も彼のようになれたらと思う。彼のようなソルジャーに。それは目標でもある。

 他人の体温がこんなに心地いいものだとは知らなかった。
 抱きしめられる心地よい温もりにうっとりと俺は目を閉じて浸ろうとして……

「……?」

 ふと、違和感を感じた。
 さわさわさわ。
 彼の手が俺の腰のあたりを…撫で回している?
 彼のグローブ越しの指先が、明らかに何らかの意思を持って俺に触れている。しかもいつの間にか俺の制服の上着をウェストベルトの下から引っ張りだして、その下のアンダーウェアをめくりあげ、素肌に直に触れているのだ。これはいったい何事だ?
「…ちょ、ザックス、何してるの…?」
 ちょっとそれ、くすぐったいんだけど。
「んー…」
「んーじゃないよ! どこ触ってるんだよ!?」
 一向に彼の手の動きが止まる気配を見せないので、俺は体をねじってどうにか彼から離れようともがく。けれど彼は腐ってもソルジャー、一般兵の俺の抵抗なんて意にも介さず、全然腕は外れないし緩まない。
「おまえホントにほっそいなー」
 囁くような声がぼそりと俺の耳元に落とされる。
 どういうつもりなのか知らないが、彼は無遠慮に俺の腰や背中を指先や手のひらを使って触りまくっている。
 触られている俺はくすぐったいやら恥ずかしいやらでたまったもんじゃなかった。
 そして尻にまで彼の手がまわったとき、俺はついに我慢できなくなった。焦った。
「ぅわああああああ」
 ひっくり返った変な悲鳴を上げながら、彼の体を無我夢中で引きはがす。
「いってええっ」
 突っぱねた指先が彼の鼻の穴に入ってひっかいたようだが、そんなことは俺の知ったことじゃない。彼のことを気遣う余裕なんてはなかった。
 鼻を押さえて呻く彼から、ずざざざざとすごい勢いで俺は後ろに下がった。彼に引っ張り出された服を引き下ろすのも忘れない。
「ななななに考えてんだあんたはっ!」
「ひでぇ、クラウド…」
「ひどくないっ! どこ触ってんだっ」
 彼は自分の手のひらを見つめて、なにやら握ったり開いたりしている。
「あれ、勝手に手が」
 とぼけた仕草で、どこまで本気で言っているのか疑いたくなることを言う。
「ザックス!」
 俺が怒鳴ると、肩をすくめて彼はぺろりと子供のように舌を出した。
「ごめんごめん。気になったもんだから。ていうかおまえに抱きつきたくなるの、今やっと理由が分かったかも。おまえ俺にちょうどいいんだわ」
「丁度いいって何が!?」
「俺の体に、ちょうどいい」
 端的に彼は答えた。けれど主語が抜けている。
 だから何がちょうどいいのかとイライラしながら俺が眉間のシワを深くしたのに、彼は飄々と言葉を続けた。


「サイズとか抱いたときのなじむ感じとか、おまえ、俺の体にぴったりで好みにどんぴしゃり」


 ………。
 からかわれているんだろうか。
 馬鹿にされている?

「それって…俺の背が低いとか体が貧弱だとか言ってんのか…? あんたがいつも抱きしめてる女の人とおんなじみたいだって…」
 自分で発した言葉に自尊心が傷つき、情けないやら悔しいやらで胸の中に嵐が起こり、唇をかみしめた。
 友達だからとか、特別だからじゃなくて…。
 俺が彼の大好きな女の人みたいだって、錯覚して抱きつきたくなるんだって、そう言われたのか…。

 ぴしんっ。
「…っ!?」
 うつむいた俺の額を小さな衝撃が襲った。
 ぴりっとした痛みに顔を上げると、むっとした表情の彼が顔を近づけて俺をのぞき込んでいた。
「何言ってんだ。なんで女? 俺はクラウドのことを話してるんだけど」
 遅まきながら、でこぴんされたのだと気づく。あとからじんじんと痛みだした。
「だって…っ、抱きしめるとか触るとか好き好んで男にしないだろ普通」
「しない…か?」
「しない! さっきのあんたのそれは、挨拶のハグとは明らかに違うじゃないか」
「うーん…、そういえばそう…かな?」
「自分のしたことなのに分からないのかよ? 馬鹿じゃないのか!」
 この人の頭の中の常識はいったいどんな風なんだろう。すっとぼけているようには見えないから本気なのか、それとも俺の考える常識は、もしかしたら一般的には常識じゃないんだろうか。
 おかしいよな? どう考えたっておかしいよな?
 俺の言葉を受け、彼は首を傾げて何やらじっと思案している。
「…そりゃ…だけど、でも俺は…だし…、ってことはつまり…」
 彼はひとりでぶつぶつ何か言っている。

 俺の心の中は色々な感情が錯綜してめちゃくちゃだった。
 いらいらしているし、悔しいしなぜか悲しくて…。これ以上彼の顔を見ているのがつらい。
 彼から一歩、二歩と後ろに下がる。
「…俺、帰る」
「え?」
 彼がこちらを振り向くのと、俺が彼に背中を向けて走り出したのは同時だった。屋上に吹く強い風に負けないように地面を強く踏みしめて蹴る。

 もう彼の突拍子もない言動に振り回されるのはごめんだった。
 彼の言葉にいちいち浮いたり沈んだり――他ならぬ彼が相手だから過剰にこちらも反応してしまうのだろう。
 自分にとっては大切で特別な人だから。
 けれど彼にとって自分は…。

 背中で声がする。
「クラウド、待ってくれ!」
 さっきと同じだ。
 俺は逃げて。彼は追いかけてきて。
 たぶんあと数歩も走らないうちに彼に捕まってしまうだろう。ほら――。
「逃げんなって…っ!!」
 あっと言う間に腕を掴まれた。
「、や…っ」
 痛いくらいの強い力で引きずられるように体の向きを変えさせられる。
 ろくな抵抗も出来ない自分が本当に悔しい。
「やだっ、はな…っ」
「クラウド!」

 捕まりたくない。
 囚われたくない。
 ―――違う。心なんて、もうとっくに。

「……っ!?」

 次の瞬間、自分の周りが無風になった気がした。

 息ができない。
 それは目の前の彼の――。

「…ん、…っ!!?」

 風の中、重なる体。
 腰を抱えられるようにして引き寄せられて、足の裏が浮く程に引っ張りあげられて。
 顎を掴まれて上向かされる。
 眼前に迫るのは彼の端正な顔だ。近づきすぎて焦点が合わない。

 信じられないことに、奪われた息は、彼の唇に飲み込まれて。

 ――そう。
 なぜか俺は彼にキス、されていた。

(なんで?)
 触れて、離れていく唇。
 その先で彼が照れたように微笑んでいる。
「…ごめん」
 抱きしめられて、優しい手つきで髪を撫でられる。

 頭の中が真っ白だ。
 キス。
 キスって、どんなときにするものだった?
 なんで俺と彼が…。

「やっと気がついた。たぶん俺、最初からこうしたかったんだ。逃げるおまえを追いかけて、つかまえて」

つかまえて、抱きしめて、キスをしたかった?

「な…何言ってんの…?」

 胸が早鐘のように激しく打ち始める。
 そんな悪い冗談…。

「ごめん。好きだ。…ごめんな」
 好きとごめん。思いも寄らない告白。
 彼は何に謝っているのだろう。謝られたって、俺にはどうしたらいいのかわからない。
 それよりも最悪なのは、今問題なのは、彼が冗談を言っているのではないこと。嫌ってほどそれが分かるからタチが悪い。

 でも、だからって、どうしたらいいんだ。

「クラウド、…クラウド。こっち向いて?」

彼の視線が、彼から顔を逸らして俯いている俺の左頬に注がれているのが気配で分かった。
…うるさい。俺の心臓、うるさい。

「あ…あんたって、そ、そんなに見境ないのかよ…っ。俺は男…っ」
「えーと、それに関しては自分でもびっくりしてるくらいだから。ホント、マジで。性別にこだわるなら、男に欲情したのは今日が初めてだ」
「よ、っくじょ…っ」
 びっくりして喉の奥が詰まった。
 彼らしいとも言えるストレートな単語がなんだか生々しいいやらしさをにおわせ、急に現実味を帯びてくる。

「おまえは俺のことが嫌いか」
 嫌いなら一緒にいたりしないだろ。
 でもあくまでもそれは友達、友達として―――。


「俺はクラウドのことが好きだ」


 ス、キ。


 彼の腕に抱きしめられた俺の体がびくりと震える。
 確かにそのとき感じたのは、そう――喜びだった。
 抱きしめられて。
 こんな風の強い屋上で。
 さっきまで友達だと思ってた同じ男の人に。
 なのに。

 嬉しい、なんて。

 あり得ないだろ。
 あり得ないあり得ないあり得ない!
 こんな展開、誰が予想できた?


「俺と付き合って」


 もちろん、友達として付き合ってくれと言われているのではないのは分かる。
 分かるけど…どうしよう。
 求められることに、胸が甘くうずいて誘惑にたやすく流されそうになるのが困る。



 逃げればよかった。
 もっと。
 もっともっともっともっと。
 死に物狂いで逃げておけばよかった。
 捕まらなければ、こんな。


「大切にする」


 彼のささやきが体の中をほわんほわんと響きながら広がっていく。まるで細胞のひとつひとつに染み渡るように。

 駄目だ。ああもうこんなんじゃ手遅れだ。
 自分ではどうしようもない、コントロールできない気持ちに支配されてしまった。


 彼に捕まったら終わりだと――そんな予感がしていなかったか?
 だから彼に捕まるのを恐れて逃げていたのではないかと…今ならそう思える。


「ザックス…俺…、俺…」
「クラウド」

 どうしたらいいのか全然分からない。
 こんなことは初めてで、こんなに特別で複雑な気持ちを自分の中ですぐさまうまく対処できるほどの器用さを俺は持ち合わせていやしないんだ。
 次々と甘い感情を俺に見せて与えようとする彼に抱きしめられているという現状が、もう一時だってたえられそうにない。

「……っ! ごめんっ!」
「うあっ!?」

 足を踏みつけて容赦なく急所を蹴り上げて、彼の腕の力が緩んだところでふりほどき、脱兎の如く走り出した。
 クリーンヒットだったらしい。背後に聞こえてきた彼の呻き声にちょっと申し訳なくも思うけれど…だって、今日は全面的にザックスが悪い。悪いから知るもんか…!


「〜〜〜っ! …待て、クラウド! まだ逃げんのかっ! てかおまえ、ごめんてなんだ!? まさか俺のことをふったのか!?」
「知らないっ! もう付き合ってられるか、ばかザックス!」
 さっきから何度も、年上の友達である前に、曲がりなりにも一応仕事上は目上の人間に「ばか」とか何度も言っちゃってるけど、言わずにはいられない。

「バカとは何だ!??!」
「追いかけてくるなっ、ばかっ」
「じゃあ逃げるなっバカっ」
 馬鹿のオンパレードだ。








 今は―――。

 今は逃げたって、いいだろう?
 悪あがきだって言わないで欲しい。


 心はそう、とっくに彼に捕らわれているけど。
 心の準備をする時間が欲しいっていうのは、わがまま? 言い訳?



 でも、今は、まだ。





「好きだー、クラウドー!」
「…! あんた、ホントに恥ずかしいからもうやめてくれーーーっ!」










end.

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