day10:rainstorm(2)





 荒地に雨が降り注ぐ。
 その中をおぼつかない足取りで進む者がいた。
 汚れた彼の両足は泥だらけだ。いや、足だけではなく身につけている服も汚れ、所々破けている。
 蒼く不思議な光を放つ目は力なく虚ろで、顔色は紙のように白い。陽の下で見たらさぞや美しく光を跳ね返すのだろうクリーム色の髪は、今は色あせたように沈んで彼の頬や額に張りついていた。

 クラウド・ストライフはのろのろと歩き、やがて地面に突き刺さった大剣の前に辿り着くと足を止めた。
 それは今はもう必要なくなった彼の大事な人の墓標だった。
 剣の柄に手をかけ、地面から引き抜く。同時に力なく膝から崩れ落ちた。それでも柄から手は離さなかった。ずるずると地面を引きずるようにしてそれを引き寄せ、身を屈めるようにして地面に横たわる刀身に額を押し付けた。

(……返さなきゃな…これ)

 決して短くはない時間、雨風に晒され続けた剥き身の刃は、錆びてぼろぼろになっていた。自分にとってこの剣は彼から譲り受けた唯一の形見だったが、彼にとっては先輩ソルジャーから譲り受けた大切なものなのだと言っていた。ならば元の持ち主である彼に返した方がよいのだろう。手入れをすればまだ使えるかもしれない。

(……お前もザックスの元に帰りたがってるだろ……?)

 濡れた鉄の塊からひんやりとした冷たさが流れ込んでくる。
 クラウドは目の前の刀身に指先を這わせた。ざらざらになって朽ちかけているけれど、それには沢山の思い出がつまっている。自分にとってそうだったように、きっと彼にとっても。

(……返すよ。でももう少しだけ待って、あと少しだけ……)

 力のこもった指先が、こめられた感情のままに刀身を滑ると、微かに赤い跡が残った。雨に鮮やかな色が滲んだ。

 街を出てからここに辿り着くまでに、クラウドは幾度かモンスターと遭遇し、丸腰な上に軽装だった彼はその度に死を身近に感じた。そのとき、直面した危機に立ち向かおうとする気力を彼は持っていなかったが、意思に反して身体は勝手に動いていた。師事を受け、本格的に格闘術を学んだティファには及ばないが、クラウドの超人的な腕力や脚力から繰り出される打撃や、攻撃を受け止め跳ね返す力はモンスターたちを退散させるには充分なものだった。
 モンスターに囲まれたとき、クラウドは“ああ、自分はここで死ぬのか、それもいいかもしれない”そんな風に確かに思ったはずなのに、なぜか身体は勝手に生きようともがいた。心の奥底に意識していない生への執着があるのか、それとも自分の意思の及ばぬところの本能というやつか、あるいは体の中に息づく異質な細胞が騒いだせいなのか。
 ともかく、体のあちこちに多少の傷は作ったものの、それでも無事にこの丘まで辿り着けたのだ。

(………)
 指先がジンジン痛むような気がして視線を動かすと、人差し指の爪が先から内側にひび割れていて血がじんわりと滲んでいるのに気づいた。剣を汚したのは指に付着していたモンスターの血だと思っていたが、自分のものだったらしい。
 クラウドは雨が血を薄め、それが地面へと流れ落ちていくさまをじっと見つめた。
(……雨が全部流してくれる……清めて……地面にしみこんで……)
 汚れは地面に沈んで、全部そうやっていらないものが流れ落ちたら何が残るんだろうと考える。
 汚れている自分がこうしていれば、雨が流してくれるだろうか。
 流れて地面に還って、そして。
(…消えて、なくなるかな……)
 クラウドは足を伸ばし、剣の横で仰向けに身体を伸ばした。勢いの強い雨に目を開けていられなくて、一瞬だけ視界いっぱいに広がる鈍い色の空を見た。

 あの日も、こんな空だっただろうか。
 彼の上に降り注いだ雨も、こんなに冷たかったのだろうか。

 同じ場所で彼と同じふうに横たわり、雨に打たれて、自分は命の終わりに思いをはせている。それが少しおかしくて、クラウドは喉の奥で微かに笑った。


『もう絶対クラウドから離れない。俺がもう一度ここに戻ってきた意味ってクラウドだと思うから、どんなに嫌がられたって一緒にいる。ずっと一緒だ、クラウド』
 何日か前にザックスが自分に言ってくれた言葉だ。
 ニブルヘイムの事件以降に自分達が辿ることになったあれこれを、あの時はまだ思い出していなかったからこそ、そんなふうに言えたんだろうと思う。
(…それでも俺は嬉しかった……)
 本当は彼と一緒にいたかった。けれど、それは多分無理なのだ。
 クラウドは同じ空の下、つい何時間か前に見た、健やかに胸を上下させて眠っていた彼のことを思った。
(……もう起きたかな、ザックス。もう全部思い出してて…俺のこと怒ってるかな。でも俺がいないから…文句をぶつけるヤツがいないから……)
 ごめん、と心の中でクラウドは謝る。身体を叩く雨は彼の体温を少しずつ確実に奪っていく。
(ごめん、ザックス。俺、また逃げたね…。どんなことでもあんたのことなら受け止めなくちゃいけないのに。……そうだよね、それだけは…、しなくちゃいけなかったのに)
 彼と向き合えば、自分の罪を彼が罰してくれたはずなのに。
 もう長いことずっと自分が求め続けていた答えを彼がくれたかもしれないのに。
 怖くて逃げ出してきた。
 結局最後まで自分はこうだったな、と思う。
 弱い、自分の心の弱さが情けなくて涙が溢れてきた。雨とは違う温かさが目尻を伝った。
 無意識に彼に繋がるものを求めて傍らの剣に手を伸ばそうとしたけれど、全身から力が抜けてしまったかのように、もう指一本でさえ動かせない。その時になってクラウドはやっと自分の身体が冷えていることを意識した。

「……ザッ、クス………」

 彼のようになりたかった。
 なぜ自分はなれなかったんだろう。
 何度も変わろうとした。ジェノバ細胞の助けを借りて一時期彼のように振舞ってみたりもした。でもそんなことをしたって結局中身は何も変わらない。後ろばかり振り返って少しも前に進めない自分がいるだけ。
 誰からも好かれるような、そんな人になりたかった。
 そこにいるだけでみんなを明るくしたり、笑わせたり、幸せにできる彼のようになりたかった。

「あんたが羨ましくて……でも大好きだったよ」

 甘い誘惑に思考が流される。
 このままここでこうしていたら、自分は死ぬだろうか。ここで土に還ることを許してくれるだろうか。
 今なら彼に愛された思い出を抱いて、それだけに満たされて消えていけるような、そんな気がした。

(…俺が死んだら……)
 自分がいなくなった後のことを考えた。きっと何も変わらない。ザックスは相変わらず太陽の下で笑って、その周りには自然と人が集まるのだろう。そのうち彼にもっと相応しい素敵な恋人が現れ、過去のことなんか忘れるくらいの幸福に包まれて…それは暖かい日向を歩く彼にとても似合っている。そうして自分のことは忘れていく。それでいい、彼には必要のない辛い思い出ごと自分を切り捨てていけばいいのだ。

(…そうだね、あんたにとって俺は必要のない存在だったのに)

 トモダチから始まった。いつの間にか恋をしていた。相応しくない夢を見た。それが間違いの始まりだった。


 雨が弱まった気がした。気のせいかもしれない。もう感覚はどこか遠いところにある。
 でも薄く開いた瞼の間から見えた空の色は、先刻より幾分明るくなっているように感じた。

 意識が遠くなる。
 何かを考えようとしても、うまくまとまらない。
 冷たい。寒い。沈む。溶けていく。

 闇が近づいてくる。

 最後に、青い空をもう一度見たかったなと思う。だから閉じた瞼の裏に彼の笑顔を思い浮かべようとした。彼の笑顔は雲ひとつない、いつか見たあの空のように透き通って綺麗だった。







 ごめん、俺に会ったばかりにごめん。あんたの人生を狂わせてごめんなさい。
 でも奇跡でもなんでもいい、あんたが戻ってきてくれて本当によかったと思う。これであんたはやり直せる。今度は俺なんかに振り回されないで、俺のいないところで幸せになれるよ。
 あんたの記憶から俺のことを全部消せたらいいのにな。俺なんて最初からいなかったみたいに。
 そのかわり、俺はそれを全部持っていく。罪も哀しみも全部持っていく。あんたに必要のないもの全て。

 あんたがどこかで笑っていてくれたら、俺はそれだけでいいんだ。他に何も望まない。
 戻ってきてくれただけで俺は、もう。


 救われたんだ。










「……ドっ」

 ……おかしいな。彼の声がする。…そんなわけないのに。

「…いっ、……ウド!!」

 ……最後にあんたの声が聞けるなんて……空耳でも…、うん…嬉しいな。
 ……こんなふうに自分が笑って……終われるなんて思ってなかった……。
 ………怖くないよ、もう………。


 …………ザックス、あ…り  が





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