day10:dawn





 意識がゆっくりと浮上する。
 喉が少し渇いている、と感じた。
 目を、開く。
 もうすぐ夜が明ける時間だろうか。
(…雨……?)
 窓の外でしめやかに降る雨の気配がする。
 ゆっくりと視線をめぐらし、自分の隣で眠る彼を見つけた。

 薄闇の中、彼の横顔をしばし見つめてから、手を伸ばした。
 頬に触れようとして少し躊躇い、結局シーツの上にぱらぱらと落ちて広がっている漆黒の髪の一束を指先で撫でた。
(…ザックスの髪って一本一本が太くてしっかりしてるんだよな……)
 疲れた頭でぼんやりとそう思う。毛先から毛の根元まで目で追い、続いて首から肩へとゆっくりと視線を動かした。肩口に何時間か前に自分がつけた噛み跡が残っていた。
(…だいじょうぶ、こんなのはあっという間に消えるから…)
 多分数日中には跡形もなく消えてしまうのだろう。もしかしたら、そんなものがあることにすら彼自身気づかないかもしれない、そんなささやかなもの。
(…そう、すぐに消える……)
 きっと彼にとってはそのほうがいいんじゃないかと思う。自分を思い出すものは何も残さないほうがいい。それを寂しく思う資格は自分にはない。

 不意にクラウドは寒さを感じて、ぶるりと震えた。
 毛布に包まれた身体は充分暖かい。凍えたのはもっと身体の奥深くにある、心だ。

 身体はもう二つに離れてしまった。
 さっきまであんなにぬくもりを分け合い、交し合い、二人の境界線も曖昧になって、近くにいた、そう思っていたのに。
 錯覚だったような気がしてくる。
 神羅にいた頃は、いつもそんな風に不安になったときは、隣の身体に寄り添ってしがみついて、そうしたら彼は寝ぼけてても起きていても、笑いながらその腕を伸ばして自分を抱き寄せてくれた。安心させてくれた。
 いつも。
 いつも。
 そうやって、自分は彼に甘えていた。彼は自分を甘やかしてくれた。
 本当は今も抱き締めて欲しかったけれど。

 でももう。



 愛しくて、でも手を伸ばせないその横顔に心の中で問いかけた。

(ザックス…どんな夢を見てる…?)

 ニブルヘイムの悪夢でなければいい。
 彼の友人や、先輩や、大切な人たちが傷つかない穏やかで優しい夢であればいいと思う。
 彼を苦しめるもの、悲しませるものではないように願いたい。

 次に彼が目覚めるときには、あの地下で見た長い悪夢以上の、辛く厳しい思い出や現実が彼に訪れるだろうから。
 だからせめて今だけは、少しでも心を癒す楽しい夢を見ていて欲しいと願う。


 雨の降る音が一段と強くなった。天から落ちてきた幾つもの大きなしずくが、地表に存在する全てのものを打ち付けるように降り注ぐ。クラウドは窓の外に目をやった。ひさしのないその窓のガラスには筋になって雨が流れ落ちていた。


(あの日も、雨が降ってた)

 ミッドガルを望むあの丘で、彼が斃れた日も。

 クラウドの記憶は酷く曖昧だった。
 誰よりも覚えていなければならないあの日のことを、自分は断片的にしか思い出せない。
 それが悲しくて、悔しくて、何よりも彼に申し訳なく思う。


 手渡された大剣。
 引き寄せられたときに感じたぬくもり。
 血のにおい。
 雨。

 冷たい雨が身体を叩いた。
 誰かの涙だと思った。

 流れていく…流れ出し、失われていく彼の命……。雨に溶け出して、彼から全てを奪っていった。

 自分は何もしなかった。
 彼の死。それは何をしてもどうやっても避けられなかったことだったかもしれない。でも自分には、彼のために最後に何かできたのではないかと、その時のことを思い出してはいつも考えた。
 でも結局自分は何も出来なくて、ただ身体の奥底から湧き上がってきた何かに押されて、大きな声で叫んだだけだった。そして心が上げた悲鳴から目を背け、現実を意識の外に追いやった。

 行け、と彼に促されて立ち上がった。身体がやけに重かった。手に握った剣も岩のように重くて…でも手離すわけにはいかない。足を引きずりながら少しずつ歩き出した。ミッドガルへ。約束したから。帰ろう、一緒に、帰ろう。

 身体に当たる雨が冷たくて、でも不思議と自分を励ましてくれているような気がした。
 一歩、また一歩、足を踏み出すごとに雨が肩を叩いて、頑張れと、まるで彼が背中を押してくれているみたいだった。


 そして自分は彼を置き去りにした。
 あの何もない寂しい丘の上に。
 彼は独りきりで、命を終わらせていった。

 自分を守るために、犠牲になった彼を、自分は。





「…………」
 クラウドはベッドの上で静かに身体を起こした。
 少し顔を近づけてザックスの顔を見つめる。隣の気配が動いたことにも気づかないほどにぐっすりと眠っているようだった。閉じた瞼はぴくりとも動かない。
(あの日もこうやって気づいたら横たわっていて…)
 あの日、雨に打たれるまま彼は血溜まりの中に倒れていて、彼が浅く息を繰り返すのにあわせて、赤黒く濡れた胸がかすかに動いていた。徐々に弱々しくなっていくそれは、確かにひとつの命の終わりへと繋がっていた。
(でも今は…生きてる)
 薄暗い部屋の中で、クラウドは規則正しく健やかに上下するザックスの胸の動きを確認して安心する。
 奇跡でも何でもいい、彼は今ここにいて、こうして息をしていて。
 声をかければ、身体を揺り起こせば、彼はその瞳を開いてくれる。
 目を、開いて、それから。

(目を、開いたら……?)
 今は瞼の奥に隠れている蒼い眼が、今度自分を映すその時には。



 もうすぐ夜が明ける。

―――雨音がする。

 彼が目を開いたら。

―――雨が降っていた、あの日も。

 全てを思い出していて。
 あの丘。銃声と。血と。果たされなかった約束。罪。
 自分がどんなに彼に酷いことをしたのかも、全部、全部思い出している。



(思い出したあんたは、どんな目で俺を見るんだろう…?)



「……………っ」
 カタカタと身体が震えだす。
 怖い。
 怖い。
 呆れるだろうか。蔑むだろうか。お前のせいでと自分を責めるだろうか。もう頭の中で何度もそういう彼を想像しようとしたけれどうまくできなかった。優しかった彼しか自分は知らないせいだろう。だから余計に怖い。
 いかに自分がずるくて弱くて欲深い人間なのかは知っているから覚悟はしたつもりだったのに、いざその時が近づいてくると、やはり怖くてたまらない。

(もうすぐ、ザックスの目が開いて、俺を)

 彼の目が自分を映して。

 彼が。





 クラウドはふらりとベッドから降りた。
 素足で踏んだ木床はひやりとした。
 冷汗が全身から吹き出ていた。吐き気がする。
 彼を起こさないように物音を殺して部屋を出た。狭いキッチンを抜けて夜着のまま玄関をくぐる。階段をよろめきながら降りて建物の外に出た。雨が容赦なくクラウドの身体を叩いた。あっという間にずぶ濡れになった。
「………」
 狭い路地、建物と建物の間からクラウドはぼんやりと空を見上げた。厚くたれこめる雨雲の向こうで、日はもう昇ったのだろうか。濃いグレーの空は色を変え始めている。
 しばらくしてから視線を下に落とし、雨に濡れるのも構わずそのままクラウドは歩き出した。まだ人が活動し始める時間には早くて、路地を出ても人の往来する姿はどこにも見えなかった。雨音だけがクラウドを支配する。まるでこの世界にいるのは自分ひとりだけのような気分になって、悲しくなって、でもおかしくて、それでも歩き続けた。

 街の入り口に辿りついたときに、誰かが泣いているような気がして一度だけ振り向いた。
 自分が泣いていることにクラウドは気づいていなかった。





→rainstorm(1)