CALL ME 06





「そういうのは怒ってもいいんだ」
 スティーヴに投げかけられた言葉にクラウドは目を丸くした。
 怒る、腹を立てる、彼に対して? なぜ?
 そんなこと、思いつきもしなかった。





 ザックスからの電話が切れた後、クラウドは廊下の片隅でしばらく立ちすくんでいた。
 手の中の小さな端末を握りこむ指が緊張にこわばったまま動かない。
 耳に残る彼の硬い声。明日からしばらく遠征でミッドガルを離れると言っていた。つまり今日を逃したら今度はいつ彼と話が出来るのか分からないということだ。

 ザックスがクラウドに会って今夜話したかったというのは、今後の二人の関係についてのシリアスな話だろう。
 おそらく『トモダチ』をやめる話。
 ザックスの口から直接言われなくても、そのくらいのことはクラウドにも分かった。
 なぜなら近頃の自分たちの付き合い方は余りにも不自然で明らかに無理をしていて、その理由も原因も分かっているのに、互いにそれには触れず、気付かない振りをして、よそよそしい『トモダチ』を『演じて』いるからだ。
 出かける前に、クラウドとの関係をザックスはすっきりさせたかったのかもしれない…と思うとクラウドは暗くて悲しい気持ちになった。
(会いに行ったほうがいいのかな…)
 ザックスのためにも。
 彼を煩わせたり、自分が彼に嫌な思いを少しでもさせているのだとしたら、それはとても辛いことだ。自分の心が傷つくよりもきっと。
(でも…)
 それでも、と迷うのは自分の甘えだとクラウドは思う。
 今夜彼に会わなければ、彼が任務から帰ってくるまでの数日間、あるいは数週間…いやもっと長いかもしれないが、その間は明瞭な別れの言葉を彼に突きつけられることもなく、まだ彼とのつながりをはっきりとした形で断ち切られずにいられるのかもしれないのと思ってしまった。
 そんな砂漠に浮かんだ蜃気楼のように不確かで頼りないものに何の意味があるのかと何者かの嗤う声がクラウドの脳裏に囁く。けれど、クラウドはザックスが好きで、彼と一緒に少しでもいたくて、そのためには意味のないものにだって必死にしがみついていたいのだ。
(…でも、そんなの)
 そうだ。『そのとき』が来るのを先延ばしにするだけで、何も―――。分かっている、分かってはいるけれど。


 どれくらいの時間その場に立ち尽くしていただろうか。
 仕事を終えて宿舎に帰ってきた顔見知りの同僚の何人かに、エレベーターのすぐ近くでぼんやり俯いて立っていたクラウドは、入れ替わり立ち替わり声をかけられ肩を叩かれた。
 そうしているうちに段々と心が落ち着いてきて、クラウドは手の中の端末をもう一度開いて時間を確認してから、廊下を歩き出した。部屋に来いと言ったスティーヴは厳密に時間を決めてはいなかったし、今からでも就寝までの間、十分話すくらいの時間はあるとクラウドは判断した。
 スティーヴとの一方的な約束、それからザックスに会って話をすること。
 クラウドの中でそのふたつを天秤にかければ、どちらが大事なことで、どちらに秤が傾くのかなんて分かりきっていることだった。
 それでも引き返さずに廊下の奥に進む。
 だって先約はスティーヴの方だったし…という言い訳は、ザックスから、別れから逃げるための口実だ。それはクラウド自身にもわかっていて、意識せずにきつく唇をかみ締めた。でも足は止まらなかった。
 目指すスティーヴの部屋は以前一度だけ訪れたことがある。
 何ヶ月か前、現在クラウドが宿舎でともに生活している同室者のカインに無理矢理引っぱって連れてこられたのだ。あれは何かのイベントの日で、他にも何人かの同僚が集まってわいわいと騒いでいたように思う。
 スティーブはいかめしい顔をしていて口数もそう多いほうではなく、一見してとっつきにくそうな印象を人に与えるが、接してみるとそんなこともなく、よく気の利く男だということが分かったし、面倒見もよくて懐も深かった。裏表のなさそうな朴訥としたところも周囲に人が集まる理由なのだろう。…『とっつきにくさ』や『朴訥として』のくだりは違うが、それ以外の『気が利いて』『面倒見がよくて』というところは、そういえばザックスに少し似ているのかもしれない。
 クラウドはフロアの一番奥にある扉の前で足を止めると、インターホンのボタンに手を伸ばした。一瞬の逡巡の後に軽く指に力を入れて、室内の人物に来訪を告げた。


 スティーヴの部屋は角部屋のせいなのか、クラウドが使っている部屋とは少し間取りが違った。部屋の広さも若干違うような気がする。部屋の両端に置いてあるベッドとベッドの間に覗いている色あせた床が、自分の部屋のものより人ひとり余分に座れるくらい幅が広いような気がする。
 クラウドは幾分緊張した面持ちでスティーヴの部屋に足を踏み入れた。スティーヴの同室のジョシュア・サンダンスの姿はなく、まだ帰ってきていないようだ。
 先に片側のベッドに腰掛けたスティーヴを見て、クラウドはどうしたらいいかと少しそわそわする。座れ、と彼が座った反対側のもうひとつのベッドを彼に顎で促され、クラウドは控えめに腰を浅くしてその端に座った。
 部屋の中には備え付けの机とベッドとクロゼットが二組ずつあるだけの、他には大きな家具はない狭い部屋だ。腰を下ろして落ち着けるのもベッドか机の椅子かの二択しかない。
 クラウドが腰掛けるのを見てから、スティーヴは胸の前で腕を組んだ。眉間にしわを寄せて口を開く。
「メシ、ちゃんと食ってきたか」
「え…、はい」
 食事、と呼べるものではないが、出掛けにビスケットを胃に流しいれたので、あながち嘘でもないとクラウドはぎこちなく頷いて見せた。
「………」
 スティーヴは眉間のしわを更に深くして、じいっとクラウドの様子を窺うような視線で眺める。クラウドは彼のこういうところが少し苦手だった。言いたいことがあるなら口に出してはっきり言ってもらった方がまだいい。表情が豊かとは言えないスティーヴが、真っ直ぐに自分に向けてくる視線を受け止めきれずに、クラウドは膝の上で軽く握り締めた自分の拳に視線を落とした。
 彼は今何を考えているのだろう。来たばかりだというのにもう帰りたくてたまらない。緊張して気持ち悪くなりそうだった。
「そんなに緊張するな」
 クラウドの縮こまった様子に、スティーヴが溜息をついた。
「…すみません」
「まあ、するなと言うほうが無理か。俺の顔は怖いからな」
 え、とクラウドは思わず顔を上げた。
「顔、怖いだろう。自分では笑ってるつもりなのに怒っているのかと言われたことがある」
「そ、そんな、こと……っ」
 クラウドは何と返していいのかわからずに、慌てて首を左右に振った。
「こんな顔してるから老けても見えるらしい。これでもまだ十代なのに二十代後半に間違えられたこともある」
「え、…そんな、それは…」
 咄嗟にお世辞でも、そんなことは全然ないですとクラウドは言い切れなくて、挙動不審気味にわたわたしていると、スティーヴは厚くてがしりとした肩を揺らした。クククと声を出さずに笑いながらベッドから立ち上がり、机の横まで歩いていってひょいと身を屈めた。そこには小さなシルバーボディの冷蔵庫が置いてあって、ドアを開いて中から缶コーヒーを二本取り出し、そのうちの一本をクラウドに放り投げた。
 勢いよく飛んできたそれをクラウドは両手で受け止める。振り向いたスティーヴは口の端を上げてまた笑った。
「まあいいか。年より老けて見える俺と、年より若く見えるお前で丁度いい」
 何が丁度いいのか分からなかったが、それよりも自分が年より若く見える、と言われたのがクラウドには引っかかった。ムとした顔で思わずスティーヴの顔を見返してしまう。
「童顔はお前のコンプレックスか」
「…今のうちだけです。背だって伸びればそんなこと言われなくなります」
「かわいいのに勿体ない」
「そういうことを言われるのがイヤなんです!」
 顔を赤くして言うクラウドに、スティーヴは再びベッドに腰掛けながら肩をすくめて笑った。いつも難しい顔ばかりしている彼が今日はよく笑うのを意外に思いながら、クラウドはふと気がついた。彼はわざとこういう話題を振って、自分の緊張を緩めようとしてくれたのだということに。
 なるほど、確かに肩に入っていた力が程よく抜けたような気がする。
「…ありがとうございます」
 何となく気恥ずかしくなって、手の中の缶コーヒーをもてあそびながらクラウドは呟くように言った。
 他人のそういう気遣いには慣れなくてこそばゆい。
「何だ」
「…いえ、これ、ご馳走になります」
「ああ」
 プルトップを押し上げると、中から芳ばしい匂いが漂った。クラウドがそれに口をつけようとしたとき、前方からカシカシと変な音がするのに気がついて目をやると、スティーヴが缶の蓋を開けるのに苦労しているのが見えた。どうやら指がプルトップに引っかからないらしい。クラウドは控えめに「俺がやります」と言って彼の手から缶を受け取り、手際よく開けてやると、スティーヴは決まり悪そうに鼻の頭を人差し指でかきながら言った。
「爪、昨日切ったばかりなんだ」
 耳が赤い。彼もこんな顔をするんだと思ったらクラウドはなぜだか嬉しい気持ちになって少し笑ってしまった。





「友達の話なんですけど…」
 手の中の缶の外側についた水滴を指ですくいながら、クラウドは話を切り出した。
「友達」
「はい。俺の友達の話で…、相談されて…」
「…それで?」
 クラウドは慎重に言葉を選んだ。ここに来るまでに、もっとちゃんと何をどこまでどのように彼に話すのか決めてくればよかったと少し後悔する。
「…彼がその…ある友達と夜、ご飯を一緒に食べて…、それ自体はいつものことで全然変わったことじゃなくて…なかったらしいんです。…でも少しお酒も飲んじゃったみたいで、それはいつもと違ってて…」
「酒は人を変えるからな」
「……。はい、多分酔っていたんだと思います。彼が、その友達を自分の恋人と勘違いして…部屋も暗かったし…」
「………」
 話しながらクラウドはその時のことを思い出してしまい、俯いた。
 言葉にして口から出そうとするだけで、苦しくて胸が痛む。自分自身の至らなさで勝手に作ってしまった傷口は、まだ塞がらずにいとも容易く血を流す。
「………勘違いして…」

 あの、夜を。嵐のように過ぎ去った時間を。
 思い出したくなんてないのに、忘れたいのに、なぜこうも明瞭に覚えているのだろう。

 最後まで言えずに口を閉ざしてしまったクラウドに、スティーヴはその続きを引き受けた。
「友達と寝たのか」
 びくりと小さくクラウドの肩が怯えるように揺れた。
「間違って寝ちまって、それで? その翌朝に彼の本当の恋人と現場でばったりで、修羅場になって大変だったとかか」
 スティーヴのその言葉に、クラウドは顔を上げないまま首を左右に振った。
「…修羅場はないです。彼が自分から、何も知らない自分の恋人にそれを話すとは思わないから…ていうか話す必要ないですよね。それは大丈夫だと思います…」
 クラウドはそこまで言うと少し顔を上げてスティーヴの顔を見、それから付け足す。「そう俺の友達から聞いています」と。
「…いや、恋人云々の修羅場ってのは、俺も思いつきで言ったんだが、彼には恋人がいるのか?」
「…会ったことはないですけど…いえ、会ったことはないらしいですけど、いるって聞いています。なんか凄くもてる…らしいので…」
「…そうか。それで?」
「ええと…その、やっぱり間違いだったとしてもそういうことあると、二人とも気まずくなったりしますよね…。彼とそういうことになっちゃった彼…じゃなくて彼女も、相手はただの友達だって分かってるのに…とか…」
「待て。確認しておきたいんだが、男のほうは勘違いをしてその女友達に手を出した。そうだな?」
「はい」
「片方が酒のせいで少し訳が分からなくなって、というのは分かるが、もう片方もそうだとは限らないだろう。女は相手が友人だということが分かっていたんじゃないのか。それなのにおとなしく従ったのか」
「…従ったとか…は分からないですけど、なんかきっと勢いとか雰囲気に飲まれて……たぶん……」
 実際、あの時なぜ諾々と彼のさせるまま、ひとつの抵抗も出来なかったのか自分でもよく分からない。
 ただ、ひたと暗闇の中、自分を見つめる蒼い双眸に捉えられた瞬間、動けなくなってしまった。ザックスに掴まってしまった。
「じゃあ別に強姦じゃないわけだ。お互い様というところか」
「ご…っ」
 スティーヴの口から出た過激な言葉に、クラウドは驚いて再度顔を上げた。まだ八割ほど中身の入った缶を取り落としそうになる。
「大事なことだろう。一方的な行為は傷つくだけだ」
「…で、でも合意ではなかったと思います…っ」
「それでも…、ということは相談内容は一体何なんだ? 俺は男女のそういうことには悪いが疎い。今の話の流れからだと、藪蛇で友人だった二人に火がついて、男の恋人だった女も含めて別れる別れないの三人のどろどろ愛憎劇…」
「…あの、すみません、修羅場とか愛憎劇とか…さっきからすごい想像力に俺ちょっとついていけません…」
「違うか?」
「それはないと思います」
「じゃあ何なんだ」
「…何なんだろう…」
 クラウドは部屋の奥の机の脇、ベッドから少し離れたところにある窓の外に視線を動かした。硝子の向こう側は墨を垂らしたような真っ黒い闇が広がっている。それをぼんやり見ながら呟くように言った。
「たった一晩の間違いで離れていこうとしている互いの心を思って、寂しいのかな…。ただ友達でいたいのに、気がつくと変に意識してたり、以前のように付き合いたいのに、付き合ってるつもりでもなんかダメで、互いに無理してて…。だから終わりが近いって、もう会わないほうがいいって二人とも分かってきてて、それが…多分辛いんです」
「…辛い…」
「………」
「…二人ともウェットなんだな、それとも…」
「…?」
「やはり男がだらしないと思う」
 視線を窓から戻したクラウドは、スティーヴの言葉の意味が分からなくて首を微かに傾げた。
 スティーヴは中身を空けた缶を床の上に置き、体を前に倒したまま膝の上に肘を置いて指を組んだ。クラウドの方に幾分体を伸ばし、クラウドを真っ直ぐ正面から見つめた。低い声で言う。

「そういうのは怒ってもいいんだ。相手が誰だって、逆らえない相手だとしても、怒っていい。嫌なことは嫌だって言っていいし、自分の意見や気持ちは相手に伝えるべきで、ひとりで悩む必要なんてない。それにハッキリした態度を取らずに相手を悩ませ続けている男が最低だ。俺はそう思う、クラウド」





***





 怒ってもいい、とスティーヴに言われた。
 ザックスの仕打ちを、クラウドは怒ってもいいのだと。
 クラウドは友人から受けた相談事としてスティーヴに話したつもりだったが、もしかしたら彼は最初からクラウドの稚拙な嘘を見抜いていたのかもしれなかった。「怒るなんて…」と困惑気味に俯いて口を閉ざしてしまったクラウドに、彼は黙って「辛かったな」と不器用な手つきで頭を撫でてくれた。その感触がとても優しくて、クラウドは込み上げるものを我慢できずに少し泣いてしまった。
 スティーヴは最後まではっきりした言葉でクラウドに尋ね返しはしなかったが、多分クラウドが話した二人というのがクラウド自身とザックスのことなんだろうということを察したのだと思う。他人の相談事に体調を崩すほどに悩む人間なんて…それにもし仮に本当にクラウドがそれを他人から相談されたのだとしても、第三者のクラウドが悩まなければならない事案は存在しないだろう。
 心の中に閉じ込めてひとりでずっと抱え込んでいた思いの欠片を他人に話すことが出来て、クラウドはほんの少し心が軽くなったような気がした。
 真実に薄々気付いていただろうスティーヴが、しかし最後まで詳しいことをクラウドに詮索しようとはしなかったので、クラウドも自分からはそれ以上のことは話さなかった。
 帰り際、泣いて赤くなった目許で恥ずかしげにスティーヴにクラウドが礼を言うと、スティーヴは穏やかに笑った。いつもは難しい顔ばかりをして無口なスティーブが、今夜は意外な顔ばかりを見せる。クラウドが戸惑いつつ佇んでいると、スティーヴはまたクラウドの色素の薄い金糸の髪に指をすべらせて優しく撫でた。
「お前を見てると妹を思い出す。いつも俺の後ろに隠れて、人見知りのするおとなしくて優しい子だった」
 妹を語る口調が過去形なのは、二年前に病気で彼女が亡くなったからだと、その後知らされた。


 スティーヴと話してみて、クラウドは自分の気持ちに今まで冷静に向き合っていなかったことに今更ながら気がついた。
 友達なのに、ただの友達なのに、その関係には相応しくないことをしてしまったという動揺に心を縛られていた。
 どうしたら彼とこれからも友達でいられるのか。一緒にいられるのかということばかり考えていた。
 失いたくなかったから、絶対に。彼の傍にいたかったから。少しでも、少しでも長く。
 今だけだって分かっている。
 沢山いる彼の友人の中で、たまたま今、ザックスは何の気まぐれかクラウドと一緒にいてくれる。付き合ってくれている。そこはとても居心地がよくて、彼の隣は楽しくてどきどきして、誰かと一緒にいてこんな気持ちになったのはクラウドには初めてのことだった。
 だから出来るなら少しでも長く、彼と一緒にいたかった。その隣に。許されるなら、出来るだけ長く。
 酔っていた彼も悪かったのだろうが、拒まなかった自分も悪かった。お互い様だ。スティーヴと話してそう思えるようになった。事故みたいなもので、クラウドは男だし、あの行為に何か特別な意味があるわけでもない。きっと勝手に引きずって二人の間の空気を変な風にして、彼を困らせているのはクラウドなのだろう。
(むしろ…むしろザックスが俺に怒ったっていいんだ)
 何で逃げなかったって、責めたっていい。ザックスからみたらクラウドは子供みたいに非力かもしれないけれど、クラウドが本気で抵抗したら彼の酔眼を覚まさせるくらいのことは出来ただろう。
 そして改めて思う。
 クラウドの中には、ザックスに腹を立てる理由がまるで見当たらないことに。

(だって、俺には)
 本当に馬鹿みたいだけれど、彼の笑顔も、ふざけて叩かれた肩も、たわいのないメールも、彼から与えられたもの全てが自分にとってはとても大切なもので宝物だ。あの日あの夜、彼から伝わってきた熱も教えられた感覚も、驚いたけれど…思い出すと少し怖いけれど、本当ならば酒のあれこれがなければ、クラウドには絶対ザックスからは与えてもらえなかったものだ。
(こんなの、歪んでるって分かってる。きっと俺はおかしい…)
 あの夜、確かに彼はクラウド一人のものだった。あの狭くて暗く閉ざされた世界に二人だけしかいなくて、互いが互いだけのものだった。そう思えば、昏く不可思議な喜びにも似た想いがクラウドの心を満たした。
 こんな想いが自分の中にあるだなんて、今まで知らなかった。
(ごめん、ザックス)
 最後まで隠し通すから。こんな暗くてみっともない、気持ち悪い想いは最後までザックスには知られないようにするから。でも忘れない。彼から貰ったもの全部が、愛しくて大切なもの。

 エレベーターが停まる。クラウドはフロアに降り立ち、廊下を進んで自分の部屋へと向かう。

 彼に嫌われたくなかった。でもぎこちないザックスの態度が悲しかった。急にひらいてしまった二人の間の距離がさびしかった。でもどうしたらいいのかクラウドには分からなかった。
 すがればいいのか。一緒にいて、友達でいてと。
 今度会ったときにはちゃんと言おうか。俺は傷ついてなんかいない、あんなの何とも思っていないからザックスは気にしなくていいと。でもこちらがいくら気にしていないと言っても、相手もそうだとは限らないけれど…でもちゃんと言いたい。それでももう駄目なら仕方がない。

(今度ザックスが帰ってきたらちゃんと…)
 廊下の角を曲がると、自分の部屋のドアはすぐそこだ。視線を上げたクラウドは、そのドアの横に人影があるのに気が付いて足を止めた。
 上から下まで黒い服で身を包んだ男が、寄りかかるようにしていた壁からゆっくりと背を離す。夜の空を溶かし込んだような艶やかな髪の一房が額に落ちかかり微かに揺れた。両手をジーンズのポケットに突っ込んだまま緩慢な仕草でクラウドに振り向く。
「…遅かったな」
 低く響く抑揚のない声、感情のこもらない冷めた蒼い目がクラウドを捕えた。見えない何かに呑まれてクラウドは背筋を震わせた。
「…な…、んで……?」
 彼がこんな場所にいるはずがない。だって電話で今日は仕方がないって、帰ってきたら連絡する、おやすみって言っていた。

「会いに来たら都合悪かったか、クラウド」
 そう言ってから、ザックスはゆっくりと顎を上げて天井を見上げ、それから少し口の端を上げて笑った。それは今までクラウドが見たこともない彼の歪んだ表情だった。目が少しも笑っていない。
「用はもう済んだのか? 約束とやらの」
 クラウドはぎくりと体を強張らせた。彼は天井を見たのではなく、クラウドが先程までいたスティーヴ・ウォンの部屋のある階上を暗に示したのだ。
「…んで、知って……?」
 別に疚しいことをしていたわけではない。ザックスに知られて困ることでもないのに、なぜか緊張にクラウドの喉の奥は引きつった。
 ザックスはそんなクラウドの様子を見て笑った。
「知られたらまずかったか? ったく笑えねぇよな。肝心の知りたいことは何にも分かんねぇのに」
 ザックスはクラウドに近づいてその左手首を無造作に掴んだ。そのまま引っぱって歩き出す。
「来い」
 エレベーターに向かう。クラウドは唐突なザックスの行動についていけなくて、ほとんど引きずられた。
「え…、ザックス待って、どこ行くの…っ?」
「もうやめだ。俺が馬鹿だった」
「な、に…?」
 会話が通じ合えていない。
 振り向かないザックスの後姿をクラウドは必死に見上げた。エレベーターの前で足が止まる。丁度扉が開いて降りてきた男が、乗り込む二人を見てびっくりして体を引いた。こんな格好を他人に見られてしまってクラウドは慌てた。子供のように手を掴まれて歩いているだなんて恥ずかしい。
「ザックス、手はなして…っ」
「いやだ」
「見られたじゃないか。恥ずかしいよ」
「恥ずかしいか。へぇ、そっか。妙な噂でも流れるって?」
「噂って別に…それは俺よりあんたのほうが…」
「俺は別に構わねぇよ。…暴れんなよ」
「だから放してって言ってる…っ」
「逃げられるのは嫌だ」
「逃げないから…っ、今日のザックスなんか変だよ」
 ザックスは声を立てずに喉の奥で笑った。だがクラウドの手を放す気はないらしい。
 目指す階に到着した事を知らせるチャイムが鳴る。ドアが静かに開くとザックスはクラウドの手を引いて、さっさと先に降りていく。クラウドは諦めてザックスの後におとなしく続いた。
 握られた箇所から彼の温もりが伝わってくる。あの夜に感じた熱をふと思い出しそうになって、クラウドは焦ったように頭を振ってそれを彼方へ追いやった。
 エレベーター前の、休憩所のようなひらけた場所を突っ切って、二人は建物の玄関をくぐった。幸いなことに時間が結構もう遅いせいか、人にはほとんど会わなくてすんだ。



「どこに行くの、ザックス」
 彼の広い背中に問いかけると、ザックスは少しだけ振り向いた。暗闇の中で、蒼く深い揺らめきが向かう先がクラウドの大きな薄青いそれと交じり合った。
「誰にも邪魔されないところ。どこがいい、クラウド」
 逆に聞き返された。
 誰にも邪魔されない、二人きりになれるところ。クラウドの脳裏にはひとつの場所しか浮かばなかったが、その場所を思い出すとまだ心が怯えて震えた。
「……ザックスの部屋じゃなければ…いい」
 小さな声で正直にクラウドがそう言うと、クラウドの手を握るザックスの指に一瞬力がこもる。その後すぐに「分かった」という硬い声が続いた。





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