CALL ME 02





 あたたかい。
 母さんだ、と思った。
 なつかしい。もう随分昔、まだ子供だった頃、風邪をひいて熱を出してぐずった俺の横で母さんが「しようがない子ね」と笑いながらずっと手を握っていてくれた。
 俺を女手一つで育ててくれた母さんの手は、日々の家事でかさかさに荒れ、皮が硬く柔らかさの欠片もなかったけれど、優しくて温かかったのを覚えている。
 頭の中がふわふわしていて、ベッドから見上げる天井がぐるぐると回っていたあの日。
 怖くて不安で、でも握り返してくれる手の温かさが、俺の心の不安を和らげてくれた。
 懐かしい、懐かしい思い出…。





「………」
 眠りの淵から急激に意識を引っぱり上げたのは違和感だった。
 身体が動かなくて重い。
 横向きに寝転がっている自分の肩と膝の辺りに、何か重いものが乗っているのをクラウドは感じた。
 ブランケットとは別に、背中から身体全体を何か温かいものに包まれている。
「………?」
 ぼんやりとした頭のまま、目を開き、何度か瞬きをした。
 枕を敷いて寝ていなかったせいか、首が痛い。
 白いシーツ、その先に白いチェストが見える。半分だけ開いたカーテンの向こうから白くかすむ外の光が室内に射し込んでいた。
 すぐにクラウドはここが自分の部屋でないことは理解できた。ではここは…。
 視線を巡らせているうちに、段々頭がクリアになっていく。
 壁にかけられた見覚えのあるタペストリー。ああそうだ、この間衝動買いしてしまったんだと彼が言っていたのを思い出す。薄い水色の生地に白や黄色の小さな花びらたちが繊細に刺繍されているタペストリー。
“好きなヤツのイメージに似てるなって一度思ったら、もう手に入れたくて仕方がなくなっちまったんだよな”
 人を物のイメージに重ねるというのが、芸術的感覚や想像力の乏しいクラウドには想像するのも難しいことだったが、彼がそれを幸せそうに見つめているので「意外にあんたってロマンティストだよな」と言ったら、彼は照れくさそうに笑っていた。
(………ザックスが笑ってた…)
 じゃあここはザックスの部屋?
 身体にかかる重みがどうにも気になって、顎を幾分引き、自分の身体を見ようとして―――このときになってようやくクラウドははっきりと目を覚ました。
 驚きで一瞬息が止まる。
 悲鳴を上げなかった自分が不思議なくらいだった。
 クラウドの胸の辺りに、身体に巻きついた他人の腕がある。
 適度に日焼けした健康的な色の、クラウドよりもひとまわりほど太い筋肉のついた逞しい腕が背後から伸びていた。
 背中からぴたりと身体をくっつけて、自分の身体を抱き締めているこの腕は。
(……ザックス…っ!?)
 驚きにひゅっと息を吸い込んだら、嗅覚がブランケットの中から流れ出た青臭い独特なにおいを拾い上げる。
 途端、脳裏に昨夜のことが次々と押し寄せてきた。
 熱、戸惑い、悲しみ、疑問、痛み。
 与えられた初めての感覚に惑い、流された、昨夜のことが鮮明に記憶として蘇った。
 きっと身体は昨夜のままなのだろう。実際に目で確かめなくても、足の間や腹、体のあちこちに違和感があった。
(…、お、思い出すな…っ)
 身体が勝手に震えだした。止めなくてはと思うのにできない。
 背中の彼が気配に気付いて起きてしまったら…。
(どうしよう。俺寝ちゃったんだ…どうしよう、どうしよう)
 クラウドの心に絶望が満ちて、身体中から血の気の引く音が聞こえてきそうな気がした。
 彼に分からないうちにここを逃げ出そうと思っていたのに。
 夜のうちに、闇が全てを目隠ししてくれているうちに抜け出せば、何もなかったことに出来ると思っていた。
 でもこんなに明るい部屋の中では。
「……ん」
 耳元で溜息のような微かな声がした。ザックスが身じろいだ。
(どうしよう、このままじゃ…っ)
 クラウドは泣きそうになった。
 腕で身体は拘束され、重石のようにザックスの足が自分の足に絡まっている。
 彼の腕が腰の辺りに移動した。腰骨の辺りに触れる彼の大きな手のひらとその指先が、嫌でもクラウドに昨夜のことを思い出させた。
 身体を引き寄せられて更に身体が密着する。
 ザックスの鼻先がクラウドの首筋にこすり付けられて唇で軽く吸われた。
「っ!!」
 声は辛うじて飲み込んだが、緊張と恐怖にクラウドの身体はビクリと跳ねてしまった。
 しまった、と思ったがもう遅い。
「……?」
 クラウドが振り返らなくても、その様子は容易く想像できた。彼が目を開いて、そして―――。
「……え…?」
 戸惑う声で、驚いた顔をしてクラウドを見て。
 抱き締める腕が、外れる。

「…クラ…ウド?」

 ザックスはきっと今、なぜ自分の横に裸のクラウドが寝ているのか、理解できないという表情をしているに違いない。

 なぜ? 本当は、自分が訊きたいくらいなのにとクラウドは思う。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 昨日の夜から幾度となく答えを求めた疑問だ。
「……っ」
 もう、耐えられなかった。
 クラウドは自由になった身体を起こし、転げ落ちるようにベッドから降りた。でも身体に力が入らなくて無様に床の上にうずくまる。身体に引っかかっていたブランケットをベッドの上から全部引きずりおろして、丸めた身体にそれを巻きつけて覆った。
 もうどうしようもない。
 彼に知られてしまっただろう。シーツの上には生々しいほどの昨夜の情事の後が、日の光の下に晒されている。
 どうしようどうしようどうしよう…。
 ここから消えてしまいたい。

「クラウド…? 俺…、え…?」

 お願いだから、今は名前を呼ばないでほしかった。
 ザックスは戸惑っている。やっぱり俺を彼女と間違えてたんだ。それとも酔って誰かと…他の誰かと間違えた。
 俺なんかとあんなことをするつもりなんて、これっぽっちもなかったんだ。
 だったら…だったら…。

「なあ…、俺、まさか……」
 ベッドからザックスが降りる気配がする。クラウドは思わず叫んでいた。
「そ、そこにいて! こっち来ないで!」
「だ、だってお前…」
 身体の震えが止まらなかった。歯ががちがちと鳴った。
 叫ぶために腹に力を入れたら、身体の奥深くに鈍い痛みが走った。昨日ザックスに散々擦られて拡げさせられた場所だということを思い出し、クラウドは泣きたくなった。まだ何かが入っているような気がする…。
 こんなみっともない自分を彼に見られたくなくて、ブランケットの下でクラウドは体を出来る限り小さくした。
「クラウド、俺…」
 動揺をにじませるザックスの声が聞こえる。
 クラウドは必死に考えた。
 この気まずい雰囲気をどうにかしなくてはいけない。
 出来るなら、ザックスにはこれからも変わらず友達でいて欲しいのだ。
 昨夜のことが何かの間違いだったのなら、彼がこのことを必要以上に重く深刻に捉えないようにしなければ。
「……だ、いじょうぶ…だから、俺」
 声の震えは止まらなかったが、クラウドは努めて明るい声を作った。
「ご、ごめん。あの…、もう少ししたら帰る、し…」
「クラウド…?」
「…き、気にしないでよ。俺も昨日酔ってたし、あんまり…お、覚えてないから…。ザックスも忘れて?」
「な、何言ってんだよ。だってお前…、これは…」
「こ、こんなのどうってことないよ? 平気。初めてって訳じゃないし、俺、女じゃないんだからさ…」
 嘘は嫌いだったけれど、今は必要だと思ってクラウドは言った。
 こんなことはただの戯れのひとつで、ただのアクシデントで、大したことではないのだとザックスに信じてもらいたかった。
 クラウドは涙をこらえて続けた。
「今日はこれから仕事だし、帰らなきゃ…。あのさ、ちょっとだけでいいから部屋を外してくれるかな。流石にちょっと色々…恥ずかしいから、さ。服着たらすぐ出てくから…、ごめんザックス」

 彼に嫌われたくない、鬱陶しく思われたくない一心だった。
 でも胸の奥がつきつきと痛んでいた。
 どうってことない、忘れればいい、なかったことにすればいいんだと思うのに心が勝手に悲鳴を上げていた。
(だって…)
 だって好きなんだ。
 初めてできた親友だった。
 ザックスのことが好きだから。
 失いたくない、失くしたくないんだ、絶対に。


 少ししてから部屋のドアが閉まる。
 ザックスが部屋を出て行ったのだと分かると、クラウドは急いでブランケットの下から這い出し、床に落ちていた自分の服を拾って身につけた。
 身体にはあちこちに色々なものがこびり付いたままだったけれど、気にする余裕はなかった。
 今は一刻も早くここから立ち去りたかった。
 ジーンズに足を入れる際、身体の奥からどろりと流れたものが足の間を濡らして、悲しくなったが気付かなかったふりをした。
 涙腺が壊れたように、涙が後から後から溢れては床に落ちる。
 目の端に白いベッドのシーツが見えた。その上に転々と赤黒いものが散っているのに気付いて、クラウドは居たたまれずに目をそらした。
「……っ」
 息がうまく出来ない。こみあげるものを歯を食いしばって耐えた。
 早く帰らなければならない。帰ったほうがいい。
 帰って、仕事の時間まで少しだけ休んで。
 この部屋から離れれば今よりは気持ちが落ち着くだろう。
 そして今日もこれからいつもと変わらない一日が始まるのだ。

 部屋の外に出てもザックスの姿は見当たらなかった。
 まだ涙が完全に乾ききっていなかったから、クラウドは少し安心した。
 よかった。今は彼の前に出てもどんな顔をしていいのかわからない。
 でも少し寂しいと思ってしまうのは…仕方がなかった。


 後でメールでも送ろう。
 いつもと同じように。変わらない文面で。“次のオフはいつ?”新しい約束を取り付けよう。
 ……それとも、もう駄目なのかな。
 あんなことがあったら、ぎこちなくなって、今までみたいに付き合ってくれなくなるのかな。





 早朝の空気はしんと静まり返っていて肌を刺すように冷たかった。
 通りを行き交う人もほとんどいない。
 クラウドは寮までの道のりを、俯きながらのろのろと歩いた。
 波がひいては満ちるように、外を歩いていても何度も何度も涙がこみ上げてきて上を向いていられなかった。
(やっぱり…やっぱり逃げなきゃいけなかったんだ。なんで…なんで俺…)
 あんなこと、なんとしてもやめさせるべきだったのに。後悔してももう遅い。
(それとも俺がガキだから…気にしすぎなのかな…)
 そうだ、男同士なんだから別にそれほど気にすることじゃないのかもしれない。
(年はあんまり変わらないけど、ザックスは俺なんかよりずっと大人だ。俺には今まで全然縁がないことだったけど、もしかしたら、彼にはこんなことも日常茶飯事みたいなことで…、あ…挨拶や遊びみたいなものなのかも…)
 そうだ、そうだ、別にどうってことない…どうってこと……。
 クラウドは心の中で大丈夫、大丈夫と繰り返した。
 他人と自分の体温を共有するような行為がクラウドには初めてのことだったので、それで過剰に反応してしまっているのだ、きっと。
「ザックス……」
 涙をぬぐうために何度もこすった頬がヒリヒリと痛んだ。





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