CALL ME 19





「もうそろそろ寝るか」
 なんとなく並んでソファに座って、ふたりでテレビなんか見てて、もう少しで日付が変わろうかという時間になっていた。
 そんなときに、隣でのんびりとした声が聞こえた。
 クラウドはすっかり油断していた。うとうとしていた。

 夕食後、クラウドが湯を浴びて身体も気持ちもさっぱりとした後、食器の片づけを終えてキッチンから出てきたザックスが入れ替わりにバスルームへと消えた。それから数十分後、タオルを首に引っ掛けた姿で出て来たと思ったら、ザックスはどっかりテレビの前のソファに座ってくつろぎ始めたのだった。
 いつもと同じ、友達として付き合っていたときと何ら変わらない彼の調子に、クラウドは最初面食らったが、この後どうなるんだろうとその少し前にバスルームで色んな想像をしてしまい、緊張してぐるぐるしていたものだから、なんだかほっとしたのも確かだった。
 ザックスの横に並んで座って、わーわーとひっきりなしに役者が賑やかに叫んでいる映画を見ていたら、彼の腕が肩に回されて体を引き寄せられた。二人の体の側面がくっついた。
 何の前置きもないスキンシップにわわわと心の中で悲鳴を上げて体を硬くしたクラウドに、ザックスはいとおしむように優しく指でクラウドの金色の髪をすき、その頬に羽のようなキスをした。
 クラウドは近すぎる他人との距離に相変わらず慣れることができなくて、そんな風にされるとそわそわして仕方がなかったが、そうしたザックスとの触れ合いは不思議と全然嫌ではなかったから、徐々に体から力が抜けて、そう時間もかからずに自然に彼の方に体重を預けていた。
 触れ合った場所が熱い。ザックスの体から彼の熱が伝わってくる。
 一緒にいるんだなあとクラウドは実感する。彼と一緒に…こんな風にまた彼の近くにいてもいいのだ、と思うと素直にうれしかった。
 そうしてザックスと寄り添いながら、心がほっこり暖かくなる幸せな気持ちをクラウドがじんわりしみじみと噛みしめているときだった。ザックスがあくびをしながら「もうそろそろ寝るか」と暢気な声を出したのは。
 優しい触れ合いと傍らの温もりが気持ちよくてうとうとしていたクラウドだったが、「寝る」の一言に一瞬で目が覚めた。反射的に背筋が伸び、そんなつもりはないのに体がびくりと震えて緊張してしまう。
 それは傍らのザックスにも伝わったはずで、クラウドは彼に変な誤解を与えてしまったのではないかと、慌てて彼の顔を見返した。
「あの、ザックス、今のはその」
「んー?」
 両腕を天井に向けて上げて、大きな身体をゆったりと伸ばしながらザックスが振り向く。彼の表情を見てクラウドは「あれ」と思った。ザックスはクラウドの反応に気がつかなかったのだろうか、特に変わった様子はなく、とても自然で穏やかな表情をしてクラウドを見つめている。
 クラウドが震えてしまったことに気がついていないのなら、それはそれでよいのだが、けれど何となくおかしいなとクラウドは違和感を感じてしまう。そういったクラウドの小さな反応さえ見逃さないのがザックスという男なのに…。何か理由があって、気づかないふりをしているのだろうか。、でも誤解されるよりはいいのかもしれない。
「クラウドも眠いだろ。ていうか、おまえ病み上がりなんだからもうちょっと早く寝かせるべきだったよな。ごめん、気がつかなくて」
「え…う、ううん、そんな…」
 何も深刻な病気で入院していたわけではないのだから、そんなに大げさに心配されるようなことではない。検査も問題なかったのだし。
 それよりも今、クラウドが気になって仕方がないのは、これからのことだ。
 やっぱり意識すると緊張してきて、クラウドの心臓はうるさいくらいに鳴り始めた。
(鎮まれ…やだ、絶対顔赤くなってる…っ)
 いよいよだ。寝る時間だ。
 これからふたりですることを考えると、どうしようもなく恥ずかしくて落ち着かない気分になる。
 クラウドはちらりと寝室へと続く扉に目をやった。
 あの扉の向こう側。
 一方的に奪われたあの夜の記憶が封じられている部屋だ。また再び足を踏み入れることに怖気づく気持ちが全くないと言えば嘘になる。けれど、あの部屋からまた、自分達の新しい関係が始まるのだと思う。だから避けては通れない。
「……」
 それに。
(初めてじゃないけど…)
 クラウドにはまだ、セックスという行為自体に戸惑いがあった。
 あの夜まで、誰ともしたことがなかった行為だった。
 けれどあれを「初めての」と言い切るには、少しばかりクラウドの中で抵抗があるのだ。
 暗い中で、頭がこれ以上ないくらいに混乱していて、されたことも何が何だかほとんど理解できていなかったし…いや、でもあれはたぶん正気だったり冷静であっても、自分の理解を遙かに超える体験だったような気もするのだが…。
 そういう意味では、この前とは違い、これからすることはお互いに意識し合った合意の上での行為だから、これからの一回が「初めて」として挑んでもいいのではないかとクラウドは思う。
 好きな人と、身体をつなげる。
 どんな感じなのだろう。
 自分はうまくできるだろうか…ただでさえ男だというハンデがあるのに、何をどうすればいいのかほとんど何も分かっていないし…ザックスをどうか幻滅させませんように…。
 赤くなったり汗をかいたり、俯いてひとりぐるぐるしているクラウドの耳に、しかし、さっきと変わらないザックスののんびりとした声が滑り込んできた。

「今夜はおまえにベッドを譲ってやるよ」

 クラウドの全ての思考が一瞬停止する。
 今なんて言った?
 おまえに、ゆずる? それって…。

「ちょい待ってな。その前に俺の使う毛布を寝室の奥から引っ張り出すから」
 そう言いながらザックスは寝室に消えていく。
 明かりのともされた部屋の奥の方から、ごそごそがたがたと何か物を動かす音がする。
 ぽつんとソファに置いてけぼりにされたクラウドは、戸惑いを隠せなかった。
 どういうことだろう…?
 今の彼の話の流れからいくと、勘違いでなければ、彼はクラウドとは別々に寝るつもりのような言い方だった。
 今夜は一緒に寝るものだとばかり思っていた。クラウドはそのことについては微塵も疑っていなかった。
 だって気持ちを確かめ合って、通じ合って、一緒にいたいと言ってくれて、部屋にまで呼んでくれた。なのに今日は別々に寝て、それで終わってしまうのだろうか。
 クラウドはザックスの考えていることが分からなくて急に不安になる。
 一緒に寝たくは…ないのだろうか?

 ほどなくしてザックスが毛布を抱えて寝室から出てきた。腕の中のそれをソファの背にばさりと無造作に置いてから、クラウドの前に戻ってくる。
「お手をどうぞ、王子様」
 そう言ってザックスは片膝をついて、まるで昔幼い頃に読んだ童話の中の王子様がお姫様に求婚するときのような仕草で片手をクラウドに向けてさしのべた。おどけた様子はなく、映画やドラマの中の二枚目俳優の演技を見ているような品を持ち合わせて、本当にその姿は様になっている。
 …ああでもそれだったら、立ち位置からザックスがクラウドに向かって「王子様」と呼びかけるのはちょっとおかしいな、これはどう考えても女性に対しての仕草だから「お姫様」と彼が呼んだほうが正しい、なんて混乱している頭でどうでもいいくだらないことをクラウドは考えてしまう。ぐるぐるしすぎてうまく頭が回らない。
「…王子ってなに…」
「気に入らないか?」
 迷いながらも、クラウドがおずおずとザックスの大きな手のひらに自分の手を乗せようとするのをザックスは待ちきれなかったのか、クラウドの手を自ら迎えに行って掴んだ。
 手を引っ張られて身体がよろめいたと思った次の瞬間には、クラウドの足はなぜか地面から離れ、ザックスの両腕に軽々と身体ごと抱え上げられていた。何がどうなってそういう体勢になったのかクラウド自身にも分からなくて、まるで魔法にでもかかったような気分だった。
「な…、なにするんだよ、おろして!」
 驚き、恥ずかしさに暴れるクラウドの額にザックスは恭しく唇を寄せる。
「こら、暴れんな。ベッドまで連れてくだけだって」
「そんなの、だったら自分で行けるっ」
「おまえを大事にしたい。だからさせて?」
「大事にって…」
 笑ってクラウドにウィンクをして見せるザックスに、やはり悪びれた様子はない。
 ザックスはクラウドを抱えながら寝室のドアをくぐった。
 少しの衝撃も与えないように優しく丁寧にクラウドの身体をベッドの上におろす。
 クラウドの身体に毛布をかぶせてやると、ザックスは満足そうに微笑んだ。
 クラウドを寝かしつけて、ザックスはやはり寝室を出ていくつもりのようだ。
「…ザックスは…寝ないの…?」
 一緒にここで寝てくれないのか、と本当は聞きたかったが、精一杯の勇気をもってしてもクラウドにはこう言葉にするのが精一杯だった。
 案の定というか、言葉が足りなかったせいでクラウドの言いたかったことは正しくザックスに伝わらなかったようだ。
「寝るよ。隣の部屋にいるから、もし何かあったら呼べよ」
「そういう意味じゃない…。何かあったらって何があるの」
「具合が悪くなったりとか、あとは怖い夢を見たりしたらとか…かな」
 クラウドの頬に手を添えて、今度は額にではなく唇にキスをした。
 怖い夢って…。完全に子供扱いだ。
「おやすみ、クラウド。よい夢を」
 ザックスは身をかがめて最後にもう一度、今度は深く唇を重ねた。
 寝る直前の触れ合いには不向きな、睡魔を遠ざけて身体の奥に火をともすようなキス。神経をざわつかせる類の熱のこもったものだった。
 そんなキスをするのに、なぜザックスはこの部屋にクラウドを置いて出て行けるのだろう。

 本当は一緒に寝てほしい。
 今夜はって、覚悟だってしたのに。
 でも彼は、違ったんだ。
 少なくとも今夜は、したくないんだ…。

 クラウドをベッドに置いてザックスは扉へと向かう。
 部屋の照明を落とそうとして、ふと振り向いた。
「…あかり、つけとくか?」
 ザックスなりに気を遣ってくれているのだろうか。
 そんなことにちゃんと気が回るのなら、このベッドにクラウドをひとりで寝かせようだなんて考えないでほしいのに。
 クラウドは毛布を引っ張りあげて顔を隠すと首を横に振った。
 泣きそうになっている顔をザックスに見られたくなかったから、暗闇に自分を隠してしまいたかった。
 パチンと音がする。ザックスがあかりを消してくれたのだろう。
「また明日な」
 毛布越しに、遠く、はるか遠くからザックスの声が聞こえてきたような気がした。

 言えなかった。
 クラウドには自分から「一緒に寝て」とは言えなかった。
「……おやすみ、ザックス…」
 消え入りそうな声でそう返すのが精一杯だった。
 扉が閉まる。
 あかりをすべて追い出して、部屋の中は暗闇に包まれる。
 クラウドは自分の心の向かう先が、この闇に紛れ込んで迷子になってしまったかのような気がして途方に暮れた。
 戸惑いはしていたが、たぶん、自分は期待していたのだろうなと思う。
 両思いになったら、今までうまく通じ合えなかったことが分かり合えるようになったり、二人の間の問題がきれいになくなるのではないかと安易な考えを持ち、錯覚していた。
 両思いになっても、やっぱり分からないことばかりだ。
 こんな自分の意のままにならない苦しい気持ちに振り回されるのは嫌なのに。
 誰もがみんなこんな想いを抱えて生きているのだろうか。
 …ザックスも、そうなのだろうか。





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