CALL ME 17





 加速するバイク。
 クラウドはふわふわした気持ちでザックスの背中にしがみついていた。
 向かっているのはザックスの部屋。
 思えばあの夜から彼の部屋には行っていない。少しだけあの夜のことを思い出して…心臓がぎゅうっと縮んだ。怖くないといえば嘘になるけど、今自分がすがれるのは、抱きついているこの大きな背中だけだ。力をこめて抱き締める。もうすぐ…もうすぐ。
 与えられた記憶を新しく塗り替えてくれるのもまた、彼だけなのだから。





***





「お…邪魔します…」
 ドアの横にカードキーを差し込んで、すたすたと先に部屋に入っていくザックスの後ろから、クラウドは遠慮がちに挨拶をしてからおずおずと玄関をくぐった。
 最初ザックスはクラウドに部屋に来て欲しくないようなことを言っていたから、もしかしたら誰か他の人が…例えば恋人とかがいるのかもしれないなんて想像もした。恐る恐る中を窺うが、他人の気配は感じられなかった。
 リビングルームに足を一歩踏み入れたところで部屋の中をぐるりと見回す。いつもより少しだけ物が繁雑に散らかっているように感じられたが、それだって足の踏み場がないだとか、人を招くのに恥ずかしいといった散らかり方ではない。それなりにだった。
 しかし誰も部屋にいないと分かっても、それでもクラウドはまだ疑う心を払拭できなかった。
 どうしてさっき、ザックスはクラウドがこの部屋に来ることを一度は拒んだのか。
 拒まれたことが存外クラウドの心の中に傷となって引っかかっていた。それを酷く気にしていることに、クラウドは今更ながら自覚した。
 ザックスが告白してくれたあの日から、自分が返事をする今日までの時間は、もしかしたら長すぎたのかもしれないと考えるクラウドは、その間に彼がもしかしたら心変わりをしたりだとか、クラウドの理解できない大人の事情みたいなものの何かで、クラウドの知らないところでもっと別の何かが進んでしまっていたとしてもおかしくはないのではないだろうかと心配だった。
 彼の部屋に誰か別の人間の痕跡がないか、変わったところがないか。
 でも面と向かってザックス本人には聞く勇気はクラウドにはない。
 今はふたりのほかに、ここにはいないけれど、数時間前までは誰かがいたのではないか、他人の残していったものがどこかに存在してないだろうか…どうしてもわきあがる疑心から、無意識にクラウドが視線を周囲に忙しなく動かして観察していたところで、不意に頭上から声が落ちてきた。びっくりしたクラウドが振り仰ぐと、いつの間にかザックスがクラウドの傍らに立っていた。
 ちょっと笑ったザックスが、腕を伸ばしてクラウドの背中を包み、自分の胸の中へと引き寄せて、柔らかく抱き締めた。
「何きょろきょろしてんだよ」
「え…う、うん…」
 正直に理由は言えない。
 クラウドもためらいながら、ザックスの脇腹辺りに両手を持ち上げて、服を軽く握り締めた。まだ自分からこうした場面で彼の背中を抱き返す勇気はない。

 ザックスの胸は本当に広くて、大きくて、あったかくて安心する。
 安心するけれど同時に鼓動も速くなる。どきどきが止まらない。
 くっついていると幸せな気分になるけれど、落ち着かない気分になる。
 気持ちが通じ合うだけで、自分の中のこの温もりの受け止めかたが全然違うものに変わるのだと知った。
 ザックスの「好き」に応えたから、これからはこういう触れあいもきっと何気ない日常の仕草のひとつになるのかもしれない。でもクラウドは心臓が凄くどきどきとして、頭の中はぐるぐるしてるし、こんなのを何回も毎日のように繰り返されたら、自分がどうにかなってしまうんじゃないだろうかと心配した。

 ザックスもまた、抱き締めた彼の体から微かに緊張のようなものを感じ取ったらしい。
 俯いたまま動かないでいるクラウドの背中をあやすように何度か撫でてから、彼の小柄な体をソファの方へと優しく押し出す。本当は部屋に入ったら思い切り抱き締めて、キスをしたかったけれど彼は我慢をする。
 最初が肝心だとザックスは思う。この驚くほどに無垢なクラウドを、不必要に怖がらせて心を縮こませてしまうのは、ザックスの本意ではない。
 最初のあの夜が一方的な自分の欲をぶつけただけの最低なものだったから尚更だった。きっと、トラウマとなってクラウドの心の中に傷を残しているに違いないとザックスは思うと申し訳なくて仕方がなかった。

「疲れただろ、クラウド。座ってろ。今何か飲みモンもってくる。何がいい?」
「……いつもの…」
 離れていったザックスのことをクラウドが何となくがっかりしているような、泣きそうな目で見ている、と感じるのは自分の都合のいい解釈だろうと、首を振りながらザックスは恋人の視線を振り切った。
「ん、分かった。けど今日はミルク五割増しな」
「……」
 ザックスがキッチンでカップを戸棚から出して、ちらりとリビングを覗いたとき、クラウドは部屋の中央のソファの端に浅く腰掛けるところだった。





 クラウドはもう一度念のために周囲を見回し、本当にいつもの彼の部屋の様子そのままなのを確認して…ちょっと安心する。
 ややしてからカップと小皿を片手にザックスがキッチンから戻ってきて、カップのひとつをクラウドに差し出した。芳ばしいコーヒーの湯気に甘ったるいミルクのにおいが強く混ざっている。そういう類の病み上がりじゃないのに、ザックスはクラウドの胃の負担を考慮してミルクを多めにしたのだろう。
 ザックスもソファに座ると思ったのに、クッキーの入った小皿をクラウドの前のローテーブルの上に置いた後、少し後ろに下がってキッチンカウンターに凭れて立ち、下がってしまった。
 ザックスはブラックコーヒーを口許に運びながら、クラウドに笑いかけた。
「お前、明日から仕事だったよな。とりあえず今日はもう思う存分だらだらしとけ。今夜は退院祝いってことで、俺が腕によりをかけてご馳走作ってやる。何が食べたい?」
 彼はカウンターに肘をかけて愛敬のある口許で首を傾げた。いつもの調子で。
 そうしていると、友達だった頃と同じような雰囲気に落ち着いている。告白しても、恋人になっても、今までと同じでいいところもあるんだろうと学習する。
 クラウドはこれまで誰かと特別な関係になったことがないから、勝手が分からなかったけれど、こうしてひとつひとつ、たぶんザックスがこれから教えてくれるのだろう。どうしたらいいのか分からなくてついつい身構えてしまっていた部分があって、そのために自分が緊張していた事にやっと気がついた。
 ザックスがいつもと同じなら、クラウドも同じでいいのだろう。なんとなくほっとして、クラウドは肩の力を抜いた。
 微笑むとカップを口に運んだ。
「ザックスの食べたいものでいいよ」
「こういうときはお前の好物作るもんだろ」
「でもザックスの作るものは何でもおいしいし…俺の好きなものとか、ちゃんと分かってくれてるから」
 ザックスの頬に一瞬だけさっと朱が走ったような気がしたが、照れ隠しなのか、首の後ろをがりがりと指先でかいて視線をさまよわせた。
「…ん。じゃあ、お前の好きなもんテーブルの上いっぱい敷き詰めてやる」
「うん」
「でも材料何にもねえな。買出しに行かねえと」
「じゃあ、俺も一緒に行くよ。荷物持ちぐらい――」
「お前はダーメ。ちゃちゃっと行ってくるから部屋でおとなしくしてな」
「でも…」
「いいから」
 そう言ってザックスは、カップをカウンターの上に置くとクラウドに近づき、蜂蜜色の髪の毛を撫でてから、その小さな頭を手のひらで少し上向かせ、自分の顔を寄せた。身を屈め、まだあどけなさを残す柔らかな頬に軽く唇で触れる。
「すぐ帰ってくるから、待てるな?」
「…う、ん…」
 薔薇色に染まる頬が本当にかわいらしくて、このままくっついていたら、衝動のまま今度は唇にキスしてしまいそうだなとザックスが思ったところで、クラウドがおずおずといった風に上目遣いで視線を上げた。その大きな蒼い目の淵が赤くなっていて、ザックスの理性を揺さぶる。
 何か言いたげな視線でクラウドは傍らのザックスを見上げていた。
 クラウドが何を言おうとしているのかに興味をもち、ザックスはしばらくじっとその目を見つめ返しながら待っていたが、彼はそれ以上一向に次のアクションを起こさない。仕方がないので、ザックスは諦めてクラウドから離れようとした。
 するとクラウドの手がザックスの服の裾を遠慮がちに掴んで引き止めた。
「あの…ザックス…」
「…?」
「ありがとう…」
「何が?」
「え…と、いろいろ…。それと…」
 くいくいと裾を引っ張る。腰をかがめろ、ということだろうか。
 ザックスが促されるまま少しだけ腰を落とすと、クラウドは立ち上がって、ザックスの逞しい首に両腕で抱きついた。そして―――

 ふにゅり、と左頬に、微かに羽のような柔らかい感触。

「…ザックスからばかりしてもらうの…不公平…だから…」

 それがクラウドからのキスだとザックスが理解できたのはしばらくしてからだった。
 唇にではなくて頬にだけれど、まさかクラウドからしてくれるだなんて微塵も思っていなかったので驚いた。
 嬉しくて、ぎゅうと抱きついてくる愛しいぬくもりをザックスは抱き返した。
 キスの理由が、不公平だから俺からもしたい、というのがまた、たまらなくかわいらしい。


「おとなしく待ってるから…いってらっしゃい」

 抱きつく体はまだ少し硬く、緊張していてどこかぎこちない。
 声も微かに震えている。
 けれどザックスに自分の気持ちを伝えようとして、少しでも想いを返そうとして、クラウドは必死になってザックスを抱き締めようとしてくれている。
 今のクラウドからの精一杯の、そしてザックスにとっては天にも昇るほどの嬉しい恋人の愛情を感じ、ザックスもクラウドの頬に自分の頬をすり寄せてから、もう一度その頬にキスをした。

「ありがとう、クラウド。いってくるよ」





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