CALL ME 14





 耳のすぐ横でザックスの声がする。
「ごめん、泣くなクラウド」
 泣いているこんなみっともない顔を見られたくない。
 こんな風に抱き締められて彼の体温を感じていても今は苦しいだけだった。

「はなせ…っ!」
 クラウドは歯を食いしばってザックスの背中を拳で何度も叩いた。ゴンゴンという重い音が体を通して響いてくる。
「落ち着けって。悪かった、俺が悪かったから」
 ザックスが謝ることなんて、理由なんてひとつもない。
 クラウドが勝手にショックを受けて、ひとりになりたいと駄々をこねているだけだ。自分のためにわざわざ休みを取って来てくれた彼を置いて帰ろうとしているのは自分、謝らなければならないのは、むしろ彼に冷たくあたっている自分のほうなのにと思うと、クラウドは自分で自分が嫌になる。けれど心が暴れ狂う。自分でも自分がコントロールできない。
「なんであんたが謝るんだ…っ」
 どうやってもザックスの腕の力はゆるまない。
 背中を叩いていたクラウドの拳はやがて諦めたように力をなくし、体の両脇にだらりと垂れた。
 ザックスは優しい。
 その優しさが、時にはつらい。
 欲しくない優しさが時にはあるのだということを、彼は知っているのだろうか。
 ザックスの手のひらが宥めるようにクラウドの頭の後ろを何度も何度も優しく撫でていた。
「お前を泣かせたの俺だろ、だからごめん」
「泣いてなんか…っ」
「ごめん」
「……っ」
 強がってみても泣いているのは事実で、そんな自分が悔しくてクラウドの目にはまた涙がこみ上げてきた。
「…ザックス、放して」
「俺が何かお前を傷つけることを言ったんだろ。言ってくれ、謝るから」
「……」
 言いたくない。それで改めてクラウドの用意していた返事をザックスに伝えたとしても、彼からは気持ちのよい返事をもらえるとは到底思えなかった。
「…もう返事はいらないんだろ…」
 それはザックスがもうクラウドからの返事を必要としていないということだ。
 クラウドの気持ちを今更伝えたとしても、それはザックスにとってはもうどうでもいいこと、彼の迷惑にしかならないものだ。
 彼にはっきりと拒絶されたらと想像するだけで、心が痛んだ。これ以上傷つきたくはなかった。
 ザックスと一緒にいたい、近くにいたい、彼とならきっと自分も…、そう願うだけで胸の中があったかくなったり切なくなったりしたこの想いが恋だというならば、自分は今日この瞬間確かに失恋をしたのかもしれないとクラウドは思った。恋を失うということが身を引き裂かれるようなこんな苦しみを生み出すのだと始めて知った。

「返事って…」
 戸惑っているのか、ザックスの声が少し上擦っている。
「あんたがいらないって言うんなら、もうこれ以上話すことなんてない」
「え…い、いや待てクラウド、お前、そんなに返事がしたかったのか?」
「……いっぱい俺考えたのに…」
 ザックスが体を離してクラウドの顔を覗き込んできたので、クラウドは出来る限り顎を引いて俯いた。
「いっぱい考えて、答えだして、返事くれようとしたのか、クラウド」
 クラウドは小さくうなずいた。
 少し上から顔をじっと見られている気配がする。視線を感じる。けれど顔を上げる勇気がクラウドにはなかった。
 ザックスはそれきり黙ってしまった。
 この沈黙がクラウドを混乱させた。自分の足元の地面をただひたすら見つめているクラウドにはザックスが今どんな表情をしているのかが分からないから、彼が何を思って口を閉ざしているのか、想像することしか出来ない。
 返事はいらないと言ったのに、クラウドがくだらないことを言ってザックスを困らせたから、呆れられているのかもしれない。面倒臭いヤツだと思われていたらと思うと辛いし悲しい…。やっぱりこんなこと言わないほうがよかったのかもしれない。

「…ごめん、ザックス、いいんだ、俺の返事なんて、くだらな――」
「分かった。返事、聞く」
 クラウドの言葉を遮るようにしてザックスの声が駐輪場内に響いた。そしてクラウドの両腕を掴む彼の手に力が入る。
 クラウドにとっては予想外で、殊の外強い響きを伴ったザックスの声に、クラウドは驚いて反射的に顔を上げてしまう。すると声と同様に真っ直ぐで真剣な彼の蒼い視線とぶつかった。
「聞くよ、お前の返事」
 クラウドの頬にある涙の筋を指の腹で拭いながらザックスは言う。
「……え? でもさっきはいらないって…」
「うん。お前からそれ持ち出されるとは思わなかったし、突然だったからうろたえちまって…情けねえよな、逃げちまった」
「うろたえ…?」
 意味が分からないと目を丸くするクラウドに、ザックスは少し笑って見せてから、「ちょっと待って」と言って二度三度深呼吸をした。
 深呼吸は息を整えるときや気持ちを落ち着けたいときにするものだ。それをザックスが今しなければならない理由がクラウドには全く分からない。むしろそれをさっきからしたいと思っていたのは、ぐちゃぐちゃに心の中が乱れていたクラウドの方だったのに。
「…なんで…?」
「心の準備、しとかねえと」
「準備なんて…」
 返事をした後にふられるのはクラウドのほうで、行き場のなくなった想いに傷つきダメージを受けるのもクラウドのほうだ。
 ザックスが先に告白した経緯はあれど、彼の心が変わってしまった今となっては、今からクラウドがしようとしている返事を聞いたあと、ザックスが多少の申し訳なさや後ろめたさを感じることはあるかもしれないが、それは彼の心をえぐるような深い衝撃にはならないはずだ。ザックスの中にクラウドに対してそういった気持ちがもうないのなら、クラウドほどに何かを身構える必要はないように思うのだが…友達思いの情の深いザックスのことだから、クラウドをなるべく傷つけないようにと色々考え、気を遣うことがあるのかもしれない。

「おし、いいぞ」
「…う、うん…」
 二人、駐輪場の一角で見つめ合う。
 しかしこうやって身構えると、なかなか言い出しにくい。
「……」
「……」
「……」
「……」
 ザックスの瞳をじっと覗き込めば、さほど明るくない場所でも魔晄の不思議なきらめきがゆらゆらと底の方で揺れているのが分かる。今はその瞳がクラウドだけを真っ直ぐに見つめて、怖いくらいに真剣な光を宿し、その表情は少しこわばっているようで…そう、少し緊張しているように見えた。掴まれている腕から彼のそれが伝染したわけでもないだろうが、クラウドもにわかに緊張してきた。
「……ザックス、あの…」
 目をそらしたくても出来ない。ザックスの視線がそれを許してくれない。際限なく心拍数が上がっていくようで、クラウドはどうしたらいいのか分からなくなる。
「…あの、返事…今ここで…?」
 先刻、これからザックスの部屋に行きたいとクラウドが自分のバクバクの心音を聴きながら勇気を出して言ったあの時、まさかザックスにそれを断られるとは微塵にも思っていなかった。クラウドの頭の中では『返事をするのはザックスの部屋で二人きりになってから』という予定が勝手にたっていたので、まさかこんないつ誰が通りがかるかも分からないような屋外で見つめあい、彼に返事を乞われるとは想像もしていなかったのだ。
「…悪い。だから今日は俺の部屋はちょっと」
 またしても拒まれる。
 彼が自分を部屋にあげたくない理由をクラウドなりに想像する。
 室内が足の踏み場もないくらい散らかっている、クラウドに会わせたくない誰かが部屋にいる…誰かが…誰か――

(………)

 そういうことなのだろうか。

 ザックスの視線が落ちつかなげに揺れてクラウドから外れた一瞬を見逃さずに、クラウドはすっと彼から視線を外した。
 決定的かもしれない。
 返事はもういいとさっきザックスから言われたときは、悲しくて胸が痛くて、なぜ、どうして、やっぱり…と様々な思いが頭の中を駆け巡り、大きな何かに潰されるような苦しさを覚えたが、現実をこうして知らされればば、ああやっぱりと全てのことに合点がいく思いだ。
 ぼんやりとクラウドは自分の足元を見つめる。
 ひんやりと凍りつくような冷たさをみぞおちの辺りに感じる。

 心は移ろいやすいもの。
 クラウドが返事をしなかった数日間の間にザックスの心が変わったとしても、それを咎めることは出来ない。仕方がない。
 そもそも本当に…本当にザックスがクラウドに対して本気で告白するなんてことがあるのだろうか。さかのぼれば、そこからして怪しく思えてくる。
 ザックスが不誠実だというのではない。
 けれどクラウドはザックスにそんな風に想ってもらえるような魅力が自分にあるとはとても思えない。自分に自信がないからだ。

 以前、休日にひとりで街を歩いていたとき偶然ザックスの姿を見かけたことがあった。遠目にだったけれど、彼の傍らにはピンク色のかわいらしいワンピースに身を包んだ綺麗な女性が一緒に歩いていた。彼女の長いふわふわとした髪の毛が歩くたびに軽やかに揺れていた。その日が休日だということをクラウドはザックスから聞いていなかった。無論互いのスケジュールを全て教えあうような仲ではなかったが、クラウドはそのとき何となくモヤモヤした気分になった。ザックスはクラウドの休みを知っていたはずだ。
 楽しそうな二人。お似合いの二人。
 今思えばあれは嫉妬だったのかもしれない。
(ザックスも休みだったんなら、俺に一言声かけてくれたってよかったのに)
 その日の夜に携帯電話に届いた彼からのメールをクラウドは無視した。
 ザックスは昼間彼女と楽しそうだったけれど、クラウドはひとりで無為な時間を過ごした。それが何となく腹立たしかった。事情を知らないザックスからしてみればとんだ八つ当たりだったろう。
 自分がザックスの彼女の位置に立てるわけがないし、なりたいと思っているわけでもなかったが、ザックスの頭の中で彼女と自分が天秤にかけられれば彼女に軍配が上がるのだという事実を突きつけられたようで、なぜかクラウドはショックを受けたのだ。
 自分は決してザックスの一番にはなれないのだと。

 そのときのピンク色のワンピースの女性が、ザックスの部屋にクラウドを招きたくない理由を作った女性かどうかは知らないが、自分よりもザックスが必ず優先するその彼女の存在を強く意識すると、クラウドの心は急速に冷えて固まっていった。
 病室を出る前までの浮かれていた自分がバカみたいに思えた。
 同室に入院していた三人を交えたここ数日のやり取りで、いい気になっていたのかもれない。他人の目から見てもクラウドとザックスはとても仲がよさそうに見えるらしいし、ザックスはとてもクラウドを心配してくれているし甘やかしてくれる。クラウドも自分の気持ちを意識して――この後、告白の返事をしたらすんなりと何もかもがうまくいくとクラウドは信じて疑わなかった。ザックスはもうすっかりクラウドとこれからも友達でいようと決めていたのに、自分だけがその気になっていた。それを考えると恥ずかしかった。

 この期に及んで、付き合いたい、ザックスのことが好きだとクラウドが告げたら、ザックスはどんな顔をするのだろうか。
 今更そんなことを言っても、彼を困らせることになるだけだ。
 何もいいことはないし、意味のないことだ。



「…ザックス、返事は…」



 そうだ。
 のみこもう。
 こんな気持ちは余計だ。
 伝えたって邪魔なだけだ。
 伝えなければ今まで通り、何事もなかったかのようにこれからも友達として付き合っていけるかもしれない。



「…返事は…、“ノー”」



 用意していた返事とは真逆の言葉を口に乗せる。
 自分で発した響きが、自身の胸を深くえぐった。その痛みを感じないふりをする。そうしなければザックスにはクラウドのつまらない嘘なんて簡単に見抜かれてしまう。



 顔を上げた。
 目を見て、ちゃんと告げて、彼にこの嘘を信じてもらわなければならない。





「…ザックスは、俺の友達。誰も代わりなんていない、ただ一人の、大切な友達だから、それ以外には考えられない」










 大好きだった。
 これからもずっと、大好きだから。

 どうか、友達で、いさせて。





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