CALL ME 11





 …ここはどこだろう。



 白い。
 何もない。
 視力が利かなくなっているのかと心配になって、自分の身体に視線を戻す。
 グローブに包まれた見慣れた自分の手。
 開いて、握って。
 いつも仕事場で着ている紺色の制服の膝を手のひらで軽く叩く。
 感覚はいつもどおりだ、問題ない。


 立ち上がって、もう一度辺りを見回す。
 360度、ぐるりと視線を巡らす。
 真っ白だ。
 本当に何もない。
 微かな期待をこめて頭上を見上げたが、やはり白いだけだった。
 雪の白さに何もかもが埋もれた光景は、故郷の村では珍しくもなんともなかった。
 けれどこの白さはそれとは違う。
 何も、何も存在しない。

 無の世界。



 この白さはどこまで続いているのだろう。
 足を踏み出せばあっという間に壁にぶつかるのか、あるいは果てしなく続いているのか。
 考え出すと急に不安になってくる。
 白さが、不安にさせる。


 誰かいないのか?
 ここはどこなんだ?


 じっとしていられなくて歩き出す。
 自分の足は、ちゃんと地面を蹴って前に進んでいるのだろうか?
 歩いているはずなのに感覚が曖昧で心許ない。
 どこに向かっている?
 いつまで、どこまで行けばいい?


 どこかにたどり着きたいと心が焦りだす。
 どんなに歩いても周囲の景色は変わらない。
 いつの間にか本当に走り出していた。
 けれど逸る気持ちに足が追いつかなくて、身体と心がばらばらになっていく。


 白い、白に飲み込まれる。
 振り返ってはいけないような気がして、ひたすら前に進む。
 じわりじわりと全身が不安に飲み込まれていく。
 気が狂いそうだった。
 どこまで行っても、何もない。
 絶望に押しつぶされそうになる。
 どこに向かっているのかさえ分からなくなる。

 そして一歩、また一歩と足を踏み出すごとに徐々にこの世界を理解し始めた。





 誰もいない。

 ここは、どこでもない。

 どこにも行き着けない。

 前になんて進んでない。

 戻る場所なんてない。

 そもそも自分はどこに帰りたいんだ?

 どこにも行けない。

 どこにも。

 どこでもないこの場所から。

 抜け出せない。





 足が止まった。
 力が抜ける。
 その場にうずくまった。

 立ち止まれば白さに呑まれてしまう。自分が消えてしまう。
 なぜかそれが分かった。分かっているけれど動けなくなってしまった。


 自分の名前を思い出そうとしたが、出来なかった。
 誰か、誰か誰か。
 助けを呼びたいのに、その名前も思い出せない。
 誰の名前も、思い出せなくて愕然とした。

 空っぽだ。
 自分の中がこの世界の白さと同じような気がして怖くなった。





 声もなく震えていたら、不意に重力が変化したように身体が軽くなった。
 硬く瞼の上に押し当てていた手のひらをほどく。
 自分から遠ざけようとしていた現実が当たり前のように返ってくる。


「…っ」


 乾いた喉がひゅっと鳴った。
 自分の膝から下が、霧がかったように影が薄くなっていた。
 涙に濡れた頬が恐怖にひきつった。
 消えてゆく。
 消えてしまう。
 この世界の白さに溶けるように跡形もなく、このまま自分は消えて、自分という存在を忘れるのか。





 いやだ、と強く思った。
 不意に約束を思い出した。
 そうだ、彼と約束した。
 だから帰らないといけない。

 笑顔が大好きだった。
 彼の笑顔が――思い出せない。
 名前は?
 彼の名前は何だった?





(一緒にいて欲しいんだ。これからも俺と)
 向けられた蒼い、真摯な瞳は覚えている。
(好きなんだ、愛してる)
 抱き締められた腕、包まれた温もり。耳元に囁かれた言葉。
 あれは誰だった?
 なぜ思い出せない?
 大事なことだったはずだ。
 大事な人だったはずだ。
 何よりも誰よりも一番、一番自分にとって忘れてはならない人だったと思うのに、思い出せない。



 まだ何も返してないのに。
 返事も、自分の気持ちも、何も伝えてない。
 彼との約束を果たしていないのに、忘れて、消えて、このまま終わるのか。





「…っ、いやだ、消えたくない、助けて誰か…っ!」

 誰か、なんていないと知っている。
 叫んだってもがいたって、どこにも誰にも届きはしない。





 視界に入る自分の身体、既に胸から下が消えていた。
 恐怖に歯の根が合わなくてカチカチと鳴った。
 夢なら覚めてくれと願う。こんなのたえられない。










(俺とのこと考えといて。帰ってきたら、返事聞かせて欲しい)

 考えたよ。眠れないくらい何度も何日も。
 けれど答えなら最初からきっと決まっていた。
 悩んでるなんてポーズを取って、そんなの表面的に繕っていただけだと思う。



 だって気持ちはいつもずっとひとつだった。
 彼の傍にいたい。
 彼といると楽しいし心地いい。
 一緒にいたい、無条件にそう思える人は彼だけだ。


 友達や知り合いが多い彼は、その付き合いも忙しかった。
 他人と仲良くしている彼を見て、嫌な気持ちになったことがある。
 彼の友達が自分だけだったらこんな気持ちにならないのかなと考えたこともある。
 嫉妬だと自分では認めたくなかったけれど、多分そうなんだろう。
 自分にとって彼が一番親しい人間であるのと同様に、彼にとっても自分が一番近しい友人だったらいいのに、そんな風にも思っていた。



 そんなに大切に想っていた彼の顔も今は思い出せない。
 こんな自分にも真っ直ぐ向き合ってくれた彼に、出来るだけのことを返しておけばよかった。返したかった。
 こんな風に後悔を抱いて消えてしまう前に。










「ごめん…っ、俺もあんたのこと…っ」

 何もかも手遅れなんだろうか。
 もうこの気持ちを届ける術はないんだろうか。
 この白い闇に溶けてしまえば、風になって彼の元まで飛んでいける?










(約束、しないか)
 あれはいつのことだっただろう。
 前置きもなくいきなり彼がそう言った。
 その目はどこか遠くを見ていた。
(約束って簡単に出来るけどさ、叶えんのは意外に難しいよな)
 ふと視線を落として自嘲気味に言うのに、常の彼の表情にはない影がさして見えて、不安になったのを覚えている。
(でも交わした約束のために、必死になって頑張れるかもしれない。諦めるのをほんのちょっと遅らせることが出来るかもしれないだろ)
 話が唐突過ぎて、意味は理解できても、そう語る彼の意図が分からなかった。
 彼が何かを簡単に諦めることなんてあるのだろうかと不思議だった。
 実際に約束を交わしたかった誰かに思いを馳せていたのだろうか。
(だから俺はお前と約束したいんだ。お前に何かあったら俺は飛んでいくよ。お前が俺を呼んだらすぐに駆けつける。絶対だ。困ったとき、助けて欲しいときは俺を呼べよ)
 あのとき、自分は何と言って返したんだろう。
 そんな自分にだけ都合のいい一方的な約束は嫌だという類のことを言ったような気がする。
(だったら、お前が必要なときは俺もお前を呼ぶな)
 彼が自分を頼るだなんて、そんな日が来るとは到底思えないと言ってむくれたら彼は笑った。
(まあ、お前が横にいてくれたら、俺には大抵のことはそれだけでじゅうぶんだと思うぜ)


 約束。名前を呼べば、助けに来てくれる?
 けどどうしようもない。
 呼ぶべき名前を忘れてしまった。
 覚えているのは蒼、青空のような青さと、優しい声、温もり、熱い――全てをさらわれそうなほどの熱だけ。
 もう一度。
 会いたかった。
 最後に伝えたかった。
 今なら……




















『――――ドっ!』










 はっとして顔を上げた。
 誰かの声がした…ような気がする。
 今聞こえたのは空耳だろうか?










『―――ド、ク…ウドっ!』










 空耳なんかじゃない。
 確かに聞こえる。
 この声は…


 彼の声だ!


 どこから…どこから聞こえてくる?










『――頼むから、目を覚ましてくれよ…っ』










 彼が叫んでいる。

「俺はここにいる…っ!」

 もう胸から下は消えていた。
 辛うじて残っている自分の手を宙に伸ばした。

 お願いだ、もう少しで思い出せそうな気がする。
 だからもう少しだけ待ってくれないか。消えないでくれないか。










『会いたかった。俺帰ってきたんだぞ。なあ起きろよ。こんなのって…冗談だろ?』










 俺も。 
 俺も会いたかったんだ、あんたに。
 分かってる。
 あんたに伝えたい言葉、もう用意できてるんだ、だから――。










『―――起きろよ、クラウド!!』










 電流に打たれたような衝撃が全身を走った。
 消えてなくなってしまった箇所にさえびりびりと感じたような気がした。ぞくぞくと震えた。



 名前。

 自分の名前。

 彼が、呼んでくれた。

 見つけてくれた。



 宙に伸ばした手を力強く掴まれた。
 逞しい腕。
 優しい笑顔。
 ゆらゆらと不思議な光を反射して揺れる蒼い双眸。
 闇夜から切り取ったような黒い髪。
 彼と視線が合った途端、濃い霧が一瞬で晴れていくように、頭の中がクリアになっていく。
 記憶が戻る。
 はっきりとした形で、彼が自分の中で像を成す。
 差し出された手を無我夢中で自分でも握り返し、手繰り寄せた。

 離したくない!
 もう忘れない…!!










「ザックス…!!!!」










 大切で特別で愛しい名前を、胸に溢れるありったけの想いをこめて叫んだ。
 彼が笑って頷いたような気がした。

 その後は、何かとてつもなく不可思議で強大な力に体を引っ張り上げられるように持っていかれ、その感覚と視界の目まぐるしさに意識を保っていられず、何も分からなくなってしまった。
 けれど繋いだ手は決して離すことはなかった。





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