STEPS





「っ、いった…っ」
 年下の恋人の細い腰に腕をまわして自分の体の方に引き寄せようとしたら、彼の体はびくりと震えて小さく悲鳴を上げた。ザックスはびっくりして手を引っ込めた。
「? どうした、どっか痛いのか」
「う…うん、あの、ちょっと…だけ…」
 なぜかクラウドは落ちつかなげに視線を辺りにさまよわせながら、ぎこちなく言う。
「怪我か? どこが痛いんだ」
 任務中にどこか負傷でもしたのだろうかと心配になる。
「……」
「クラウド?」
「…怪我じゃないから大丈夫、だから…」
 要領を得ないしどろもどろな返答だ。
 ザックスを心配させまいと気を遣っているのだろうか。それともはっきりと言えない何か特別な理由があるのだろうか。
 ザックスはますます気になって仕方がなくなった。
「どこが痛いんだって聞いてんの」
 少し眉を寄せてザックスがそれまでより低い声を出したら、誤魔化せないと観念したのかクラウドは視線を落として弱弱しい声で呟くように言った。
「…腰」
「腰?」
「……背中とか」
「背中も?」
「………あとお尻…が痛い」
「……」

 腰、背中、尻。
 え、それって。

 それらの場所が痛むと聞いたら、ザックスの脳裏にある行為が即座に浮かんだ。そうしたら他の可能性に考えが及ばないくらいに頭の中はそれでいっぱいになってしまった。胸が急激に冷え、黒く塗りつぶされていく。
「な、なに、ザックス、怖い顔して。俺別に…」
 ザックスから放たれる物騒な雰囲気に、他人の心の機微に鈍感なほうのクラウドもさすがに気づき、たじろいで本能的に一歩下がった。
 ザックスがクラウドと過ごすときは、大抵は穏やかに、そしてきらきらと無邪気に輝いてさえ見える彼の魔晄を宿した蒼い瞳が、今は見るものを射殺そうとでもするように、なぜだか剣呑な光を帯びている。
 しかし、どうしてザックスがそんな表情になって自分を見ているのかが、クラウドにはさっぱり分からない。
「…誰にヤられた?」
 やられた? 何が?
「え…?」
「名前を言え。殺してくる」
 低い、地の底から響くような凄味のあるザックスの声は、軽々しい冗談な響きは微塵も含まれず、本当に今すぐに誰かを殺しに行かんばかりの刃のような鋭い殺気がこもっていた。
「ころ…? え? 何?」
 しかしここに至っても、クラウドにはザックスが何を言ってるのか全然分からない。
「俺の目が届かなくなるとすぐこれだ! お前を置いておちおちミッションにも出かけられねえ! 俺のクラウドに…クソっ!」
 確かにザックスがミッションに出て彼が不在のときに、クラウドは腰などを痛めはしたが、なぜ彼の不在とクラウドの痛みが、ザックスの頭の中でひとつに結びついたのか…。
 クラウドは自分の今までの発言と彼の言葉を思い返し、総合して、必死に思いを巡らせて、やっと彼の勘違いの可能性について思い当たった。
 何でそうなるんだ。そんな馬鹿な、である。
 信じられない冗談じゃないとクラウドは慌ててザックスに向かって叫んだ。
「ちょ、待ってザックス! すごい誤解してるたぶん!」
「何が誤解だ!?」
「だから、俺が痛いのは自業自得だし、誰のせいでもないし!」
 本当のことを打ち明けるのは恥ずかしいが、変な勘違いをされてるほうがクラウドには耐えられない。
 ザックスが目を見開いた。
「どういう意味だ。え…、自分でって意味か?」
 自分で、とはどういう意味だ。
「お前浮気して自分から別の男と…」
 クラウドの予想を裏切らず、クラウドの体が痛いのはセックスのせいで、しかも今の話の流れから、ザックスではない誰か他の男としたセックスのせいだと彼は考えたらしかった。恋人不在の中、クラウドが他の男と不義を働いたと思っているのだ。
「やっぱり! やっぱり誤解してる!!」
「だから何が誤解なんだよ!?」
「ていうかザックスは俺がそんな風に簡単に浮気すると思ってるんだ!?」
 そんなことをする人間だとザックスはクラウドのことを考えているのだろうか。クラウドは悲しくなる。
 今にも泣きそうな顔のクラウドに、今度はザックスがたじたじになる番だった。俺のこと信じていないのかよ的な痛いところを指摘されて大いに慌てた。
「え…、いやその、だってお前が腰と尻が痛いって言うから俺は…(もにょもにょ)だと思うじゃないか…」
 トーンダウンは明らかだった。
 不揃いにつんつんと切り立っているたてがみのような黒い彼の髪も、心なしか元気なく垂れ下がったように見える。
「浮気って言うんなら、俺よりザックスじゃないか! ザックスが総務課の美人とデートしてたって同僚が噂してたの聞いたんだからな!」
「なんだそれ、そんなの知らねえよ。お前は俺よりそいつらの噂を信じたのか」
 身に覚えのない噂は、人違いか、あるいは多少のやっかみが入って誇張され、真実が捻じ曲げられて広まったのかもしれない。
 クラウドはその噂を聞いたとき、そういうこともあるかもしれないとは思った。けれどそれはザックスを信じていないから、という理由ではない。
 それでも噂の真偽はやはり気にはなったが、当人に直接聞く機会がないまま今日という日を迎えたのだった。
「だって…だって」
 ザックスと会えなかった間、ひとりで悶々と考えるしかなかった。
 直接会えなくてもメールや電話で連絡して確認するという手もあったが、実行に移す気にはならなかった。それらのツールを使ってどんな答えを彼から貰ったとしても、きっと本人が目の前にいないと納得できないと思った。声も文字も平気で嘘をつけるからだ。
 真実なら受け入れるが、嘘をつかれるのはつらい。
 そして考えれば考えるほどにクラウドの気持ちは悪い方に傾いていった。
 人の心は移ろうものだ。何かのきっかけで容易く離れていくものだとクラウドは知っている。だから迷う。
「…そっか。信じたのか」
 俯いて黙ってしまったクラウドに、ザックスが目を伏せて重い息を吐く。
 声には気落ちした色がはっきりと含まれていた。
「…俺、別に…」
 クラウドが答えられなかったからザックスをがっかりさせたのだろうか。
 瞳を揺らしてクラウドが顔を上げると、ザックスもまた顔を上げて真っ直ぐにクラウドを見返した。
「やっぱちょっとでも離れてたらダメだな。いちいち確認しないとダメになる」
 ザックスはそう言うと、クラウドに向かって両腕を広げて胸を開く。
「クラウド」
「…ザックス?」
「抱きしめさせて、思いっきり。そしたらちょっと噛みあわなくなってる俺たちもきっと元通りになれる」
 そんなことで何かが解決するとはクラウドには思えなくて躊躇した。
「ぎゅってさせて、クラウド」
「……」
「クラウド」
 再び促されて、クラウドはおどおどしながらもザックスに向けて一歩足を踏み出した。
 ザックスにこうして乞われるのはとても嬉しい。
 でもいつもなら、彼がそうしたいと思ったなら、いつだってどこでだって強引に彼のほうからクラウドに手を伸ばして抱きしめてくるのに、なぜ今はクラウドからのアクションをあえて求めるのだろうと少し拗ねたくなる。
 どうしても振り払えない恥ずかしさが邪魔をして素直に動けないクラウドは、ためらいつつザックスの胸にそっと自分の手のひらをそえて体を寄せた。少しだけ体重を預ける。緊張して胸が高鳴り、こんなことにでさえクラウドの呼吸は乱れた。ザックスはそんなクラウドの体に腕を回してさらに自分に引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
 ザックスの逞しい胸板にクラウドは左頬を押し付ける。
「…うん、クラウドだ…」
 ザックスは眼下の金色の髪に鼻をすり寄せて息を吸い込んだ。
「こうやって抱きしめても痛くないか?」
 そこかしこが痛いと言ったクラウドの体を心配してのザックスの問いかけに、クラウドはその広い背に腕を回して小さく頷く。その気遣う優しさがとても嬉しい。
 そうしてザックスの体温に包まれていると、こり固まっていたクラウドの心はまるで魔法にかけられたかのようにたちまち穏やかになった。
 クラウドは踵をあげてつま先で立ちザックスの肩に顎をこすりつける。それは目の前の愛しい存在に少しでも近づいて体をくっつけたいという無意識の行動だった。
 ザックスがそういうクラウドの気持ちを感じ取り、小さく笑って背中を優しく撫でた。
「…うん、クラウド、分かった」
「…ザックス」
「こうしたら、クラウドの気持ちが全部分かった」
「…ホントに…?」
 抱き合うだけで、本当に分かったのだろうか。
 ザックスの口調が至極真面目だったので、クラウドはなんとなくおかしくて口元をゆるめた。
「クラウドは? 俺のこと分かってくれた?」
 俺にはお前だけなんだって分かってくれたか?と聞かれる。
 クラウドはザックスのことを、その愛情を信じていないわけではないのだ。けれど、実際のところ、こんなふうに自分のことを抱きしめてくれるのなら、彼がもし嘘をついていても、裏切っても何でもいいような気がしてくるクラウドなのだった。
 今この瞬間だけは、間違いなくザックスはクラウドだけに向き合ってくれている。クラウドだけの存在だ。それがとても嬉しい。心が満たされる。
「クラウド?」
 クラウドから返答がないことを心配してか、頭上でザックスが首を傾けた気配がする。
 クラウドは顔を上げてザックスの顔を見上げた。
「…うん。でもね、俺は…別にいいんだ。もちろん浮気とかはいやだけど、今はこうしてあんたと一緒にいられるし――」
 ザックスは眉間に皺を寄せた。
「何が別にいいんだよ。俺は、」
「分かってる。ザックスは嘘をついてない。だけど」
 クラウドは微笑んだ。けれどそれはどこか寂しそうな笑顔に見えて、ザックスは再び自分の胸に彼をぎゅっと抱きしめた。
「…ザックス?」
「…俺、お前にそんな顔させてばっかだ」
 どうしてなんだろう。好きだと想いを伝え合い確かめ合って、こうして今は一緒にいるというのに、なぜクラウドはいつもそんな風に寂しそうに笑うのだろう。ザックスはたまらない気持ちになる。
 クラウドの慎重で控えめな性格を差し引いても、望む望まざるにかかわらず、クラウドを必要以上に不安にさせる要素をザックス自身が幾つか持っているということは自覚している。
 過去の女性遍歴や所業も、クラウドと付き合うようになってからは心を入れ替え、恋人に誠実であろうと精一杯ザックスは努力しているつもりだ。けれどクラウドにこんな表情をさせてしまうということは――。
「…まだまだ足りてないんだな」
 ザックスは溜息混じりに呟くと、唇でクラウドの額に触れた。一度ではなく何度か繰り返した。
「…足りてない…?」
 キスの感触がくすぐったくて、クラウドはザックスの腕の中で肩をすくめる。
「クラウドが好きだー俺にはお前だけだー愛してるーっていうのがじゅうぶんお前に伝わってない、足りてないんだなあって」
 そんなこと、とクラウドは目を瞬く。
 いつも過ぎるほどの言葉や愛情を彼にもらっている。足りないなんてことは全然ない。
 目を丸くするクラウドに、ザックスは彼の身の丈に合わせて背を屈めると、顔を傾けてより近づいた恋人の唇に自分のそれを重ねた。
 浅くもないが深くもない接触の後、いたずらのようにクラウドの唇の表面を舌でぺろりと舐めて顔を離したら、クラウドはちょっと頬を赤くして唇を尖らしてザックスを見返した。
 こういう子供っぽい表情や反応をかわいらしく思う反面、ついいじめてみたい気持ちにもなるザックスだった。
「……ベッドに行こう、クラウド」
 低めた声をクラウドの耳元に送る。
 抱きしめたクラウドの体がびくりと揺れた。
「えっ…、な、なに急に…?」
「俺たちに足りてないことを補いに行こう。それと、おまえが痛いって言ってるとこ、俺が見てやるよ。なんだったらマッサージしてやる」
「べ、別にいい…ていうかそんなのベッドに行かなくたって…っ」
「ここで脱がせちゃってもいい?」
 ここ、とはザックスの部屋のリビングルームのソファの上だ。
「あの、大丈夫だから…っ、ちょ、ちょっと痣になってる程度で…っ」
「痣?」
 そういえば、ザックスのろくでもない妄想のせいで話が脇道にそれまくり、クラウドの体の痛みの真相をまだザックスは聞き出せていなかった。
「痣…ってことは、打ち身なのか? どこで打ったんだ?」
 決まり悪そうに顔を背けてザックスの視線から逃れようとするクラウドをザックスは身を乗り出して追いかけた。
 クラウドは追究から逃げられないと観念したのか、渋々と言った風情でとうとう小さく口を開いた。
「……落ちた」
 ぼそりと投げやりな感じにクラウドは言った。
「落ちた…ってどこから」
「……」
「クラウド」
「……夜勤の警備のときに…仮眠の後ちょっと…その、半分寝ぼけてたみたいで…起き抜けに階段…踏み外して…」
 だんだんと言葉の調子が弱々しくなり、最後には目の前にいるザックスの耳にも届かないくらいにか細くなってから、クラウドの口は完全に閉じてしまった。
「階段を、落ちたのか?」
「……」
 クラウドは恥ずかしいのか、口をへの字に曲げてむうと不機嫌な顔になる。
「おまえ…意外にどんくさーー」
 思わずザックスがそう漏らしてしまうと、どんくささとは縁遠いような速さでクラウドが顔を上げて、ザックスをキッと睨んだ。
「だから言うのイヤだったんだ…っ!!」
「だって踏み外して階段落ちて腰や背中や尻が痛いってことは、要は思い切り転んだってことだよな? 尻餅ついたとかいう」
「う…っ」
 そうなのだ。体勢を立て直す暇もなく、ずだだんと尻餅をついて数段階段を落ちたのだった。あのときのことを思い出すだけでも、恥ずかしくて情けなくて顔が熱くなって嫌な汗をかくクラウドだった。
 ザックスがクラウドの頭をぽんぽんとあやすように叩いた。
「心配だわ…兵士としてのおまえの資質…」
「な、な…、ざ、ザックスだって寝ぼけてなんか間抜けなことをしちゃったみたいなの、今までの人生で一回ぐらいはあるだろ!?」
「人生を持ち出されてもねぇ、確かにおまえよりはちょっと長く生きてるけど…うーん…」
 視線を巡らせながら過去の自分を思い返しているのだろうザックスは、そうしてしばらくしてから「あ」と小さく声をもらした。数瞬だが目が泳ぐ。次にそろりとクラウドに視線を戻してから、不自然なほどににこりとその男らしい顔をゆるめて笑った。
「…ま、とりあえず、ベッドに行こっか」
 思わぬ切り替えしに、クラウドの目が点になる。
「は!?」
「まずは痣見せろ。俺回復系苦手だけどさ、確かマテリア持って帰ってきてるヤツの中に…」
「ま、待って! 今の会話の流れちょっとおかしいよね!? ザックスが自分に都合の悪いことまるまるすっ飛ばした感じがするんだけど違う!?」
「何言ってんだよもー。気のせい気のせい」
「気のせいじゃない! さっきの「あ」って何だよザックス!」
「そんなこと言ったか俺? ていうか痣見るだけだろー。何をそんなにいやがる必要があるのかな、クラウド君。って、あれ? もしかして俺が服脱がせるって言ったから、なんかイヤらしいこと想像しちゃってるとか? やだなあ、俺は純粋に恋人の体を心配してだなぁ」
「嘘だ! あんたの目、なんかヤらしいもん!」
「それこそ気のせいだろー」
「ていうかこんな昼間っから…っ、え、ちょっと、わあっ、ザぁあックス…!」
 ザックスの力と勢いには勝てず、ほとんど羽交い締めにされたみたいな格好でクラウドはザックスの太い腕に絡めとられ、ずるずると寝室に引きずられていったのだった。



 その後、ザックスが「全然足りてない」とのたまったものを補完しようと精力的にあれやこれやと頑張った結果、クラウドは桃色ではあるが散々な目に遭ったとかいう――。










back