prologue〜honeymoon...?





「旅行、行かないか」


 かなり遅い夜食を取っていたときだった。
 不意にテーブルの向こう側の男が、今日の他愛無い出来事を話していたその延長線上の軽い口調で、本当についでといった感じでそんな言葉を付け足した。
 その時、皿の底に残っていた野菜スープをスプーンですくいあげていたクラウド・ストライフは、男の話にそれまで適当に相槌を打っていたので、うっかり上の空な状態で「うん」と頷いてしまった。
 少し遅れてからその言葉の意味に気づき、慌ててクラウドが顔を上げると、既に食事を終えていた男がこちらを見ていて、彼は頬杖をつきながら人好きのする笑顔でにこりと笑った。
「良かった。クラウドのことだから面倒くさいとか仕事があるって言って、絶対行かないって言うと思ってたから」
「え…、ま、待って、何旅行って…っ」
 突然何を言い出すのだ、とクラウドは慌てる。
 最初からちゃんと彼の話を聞いていれば、即断で「行かない」とにべもなく却下していただろう。なので、今更だがクラウドは叫んだ。
「そ、そんな暇あるわけないだろ、行かないぞ俺は!」
「えーっ、さっきクラウド行くって言ったじゃん。男に二言はないよなあ?それともなにか?人の話ちゃんと聴いてなかったなんて酷いこと言わないよなあ?」
「………っ、」
「なあ、クラウド?」
 少し不満そうな顔で男、ザックス・フェアはクラウドの顔を覗き込んでくる。でもその目には明らかに楽しそうな光が浮かんでいて、クラウドはその理由に気づき男を睨んだ。
 確かに自分はさっき頷いた。それは事実だ。
 けれど素直に「ぼんやりしてたんだ」とは言えないのがクラウドの性格だった。
 言い訳を言うなら、その日クラウドは一日中仕事で外を走り回っていて心身ともに疲れていた。頭は半分睡眠の誘惑に傾いていて、正直言えば食事を取るよりも何よりも、すぐにベッドに倒れこみたい気分だった。それでも食事を作って自分の帰りを待っていてくれた彼の心遣いが嬉しかったから、クラウドはおとなしくテーブルについて自分の前に並べられた食事を黙々と食べたのだ。
 目の前で楽しそうに何かを話しかけてくるザックスに適当に相槌を打ちながら。
 そして、ザックスもそんな上の空なクラウドの様子に気がついていた。
 気づいていて、わざとこういう展開に持ち込んだのだ、きっと。

「……なんで、旅行…?」
 男に二言はないだろ、なんていう風に言われると、クラウドは何も言い返せない。
 ザックスは、よくこうやって言葉などでクラウドを引っ掛けて、流れをコントロールしようとすることがある。深く考えていないように見えて案外策士な部分もあるのかもしれない。それともそこら辺が人付き合いのうまい人間とそうでない人間の差なのか。ふと後になって、彼にいいように掌で踊らされていたと感じられることも多々あって、だけど自分が余りそれを不快に思わなかったりするのは…惚れた弱みだろうか。
 とりあえずそれでも少しは抵抗したいクラウドだった。何の前触れもなくそんな突拍子のないことをなぜ言い出したのか、その真意を聞き出そうと考えた。何というか…そこに自分が「行かない」と言い返せる正当な理由を見つけ出せないかと思ったのだ。
「まあ、記念になるかな、とかさ」
 ザックスは白い歯を見せて笑って言った。闇色の艶やかな髪がそれに合わせて揺れる。
「記念?なんの」
「今ってさ、いわゆる俺たち蜜月だと思うんだけど」
「は?み、蜜月って…」
「そうだろ。この間やっと気持ちが通じ合って一緒にいようって約束したのに、なんかここ数日すれ違い多いし仕事は忙しいし疲れてるしで、勿体ないと思わねえ?こう気持ちの盛り上がりがさあ、行き場がないっていうか。だからここはひとつ、いわゆる“新婚旅行”ってヤツを……」

 どっかっっ。

 新婚旅行、という言葉が彼の口から出たのとほとんど同時に、クラウドはテーブルの下で彼の脛を硬い靴の先で思い切り蹴りつけていた。
「痛たっっ、ちょ、うおっ、クラウド痛ぁっ」
「何が新婚旅行だバカっ!!!」
 怒って立ち上がるクラウドを、涙目で脛を抱えながらザックスが見上げる。
「ひでーよ、クラウド…、あ、でも顔、赤い。照れてる?もしかして満更でもなかったり?」
「怒ってるんだ!そもそも現実的に行けるかってんだ!金ないし仕事あるし無理だろっ!」
「金はまあ…どうにかなるんじゃん?なくても食糧にも寝床にも、俺らそんなにこだわりないじゃん、基本的に。仕事はなぁ…うん、今受けてるやつをぱーっと片付けてさ、旅行中はちょっとの間お休みってことで」
「ちょっとの間って、あんた、どれくらい旅行するつもりでいるんだよ」
「そうだなあ…一、二ヵ月ぐらい…?」
「二ヶげ…っ」
 これにはクラウドも絶句した。
「そんなに遊んでいられるほど生活に余裕ないだろ、俺ら!」
 実質的に家の財布の紐を握っているクラウドは拳を固めて力説した。
「クラウドって割と堅実だよな…」
「あんたが楽天的すぎるんだ!」
 ぼそりとザックスが唇を突き出して言ったのに、クラウドは目をカアッと開いて言い返す。
 さっきまであんなに、どこもかしこも眠い眠らせろーと訴えていたクラウドの全身は、今はよく分からないテンションと興奮に包まれて完全に覚醒してしまっていた。
「だからさあ、お金はどうにでも…。んー、じゃあさ、仕事の宣伝を兼ねて、ってのはどうだ?配達屋と何でも屋が合わさってグレードアップした仕事の宣伝と挨拶を兼ねての旅行。チラシとか配ってもいいし」
「宣伝……」
 単純だが、宣伝という言葉にクラウドの心は少しぐらりと揺らいだ。
 ザックスと一緒に住むようになってから始めた何でも屋の仕事。
 最近ちらほらと仕事の依頼が来るようになってきてようやく軌道に乗ってきたかなという感じだ。クラウドも配達業のかたわら、手が空いている時には仕事を手伝っていた。
 実は何でも屋の仕事もクラウドとしては気に入っているので、もう少し客層を広げられたらいいなと思っていたところだった。何の仕事が舞い込んでくるのか分からないが、そのひとつひとつの依頼された仕事をこなしたときの充足感は配達の仕事では味わえないものがあるように感じている。

 ……宣伝、はしたいかもしれない。

 クラウドの表情の変化に気づいたザックスは、まだ痛む足をこらえて立ち上がると、クラウドの前まで歩いていき、優しくその両手を取った。途端に身体を引いてそれを振りほどこうとする彼を、構わず引き寄せる。10センチ以上自分より下にある彼の瞳を身を屈めて覗き込んだ。
「俺、こうしてまたクラウドと一緒にいられるようになって、すっげえ今幸せ。だけどさ」
 クラウドの目が、一瞬はっとしたようにザックスを見て、それから迷うように視線を泳がせた。
 重ねた掌にじんわりと温かいクラウドの熱が伝わってくる。
 押すなら今だとばかりに、ザックスはクラウドの身体を更に引き寄せて、唇に触れるだけの軽いキスを落とした。
 決して長くはないが一筋縄ではいかない小難しい彼との付き合いの中で、引くところと押す場所の駆け引き、その有効性をある程度学んでいるザックスだった。
「まだ全然足りない。もっともっといっぱい、幸せなこと増やしたい」
 甘くて低い声を、努めて出した。
 クラウドはこの声に弱い。
 この声で話しかけると彼の身体が硬直して、ゆでだこの様に真っ赤な顔でたじたじになることを知っている。知っているから、あえて今使う。
「今はもっと二人の時間を大切にしたい。そのために旅行はいい手段じゃないかなと思うんだけど、どう?クラウド」
「…………」
「クラウド?」
「……せ、宣伝も兼ねて…なら」
 うっかり聞き逃してしまいそうな、消え入りそうな小さな声で返ってくる。
「旅行、俺と行ってくれる?」
「…………」
 こくり、と。
 やや間を置いてから、目の前の蜂蜜色の髪の毛が実に消極的な動作であったが、小さく頷いた。
 おっしゃ、成功!とザックスは心の中でガッツポーズをした。
 一度ぎゅうっと力いっぱい目の前の身体を抱き締めると、クラウドの腋の下に手を差し入れる。そしてまるで赤ん坊や子供を扱うように、クラウドの身体を軽々と両手で抱き上げた。これにはクラウドも目を丸くした。
「ば…っ、ザックス!何して……っ!?」
 クラウドを抱き上げたままその場でくるっと回って見せ、ザックスはぴょんぴょんと本当に嬉しそうに跳ねた。恐るべきはソルジャーの身体能力、その腕力だった。
 ザックスの硬い靴の底がその度に鈍く重たい音を立てるのを、クラウドは下ろせとザックスの腕を叩きながら気にした。
 体勢は勿論恥ずかしいのだが、今はその床音のほうが数倍気になるその理由は、また階下の住人に……若いっていいねぇなどと、たっぷりの嫌味と幾ばくかの好奇心を含んだ目を向けられて言われそうだと思ったからだ。想像しただけでも憂鬱になる。
「旅行!俺、旅行大好きなんだ!」
 はしゃぐザックスには今のクラウドの複雑な心の内はまるで分かっていなかった。
「下ろせバカっ!あんた、新婚旅行とか宣伝とかうまいこと言ってたけど、ただ単に自分が羽伸ばしたかっただけなんだろ!趣味が旅行とかって、そういえばなんかで聞いたことあった!」
「えー?いやいやいや、お前と一緒に行く旅行に意味があるんだって!よっしゃ、約束な!したからな約束!忘れんなよ!?」
「クソっ、もうそれはどうでもいいよ!行くよ、行くから!それより今何時だと思ってんだ、大声出すなよ、音立てんな!いいから下ろせ、信じられないあんた!!」
「んーーっ」
 抱き上げたのと同じようにひょいとクラウドを床に下ろすと、ザックスは有無を言わせぬ鮮やかな仕草でクラウドの身体を引き寄せると、その唇に音を立てるぐらいの濃厚な口づけをひとつ送った。
 唇を離すとスキップしそうな勢いで、部屋の隅にある机に向かう。
 固定電話の置き場所となっているそこにはコルクボードが立てかけてあって、ザックスはそこに無造作にピンで止められた紙片に書かれている内容と、その横に置いてある小さな卓上カレンダーの日付とを照らし合わせて調べだした。紙片に書かれているのは、既に依頼されている配達の仕事内容を書き出したメモだった。
「そうと決まれば早速出発日を決めようぜ。いつから行けっかな。明日…三日後には依頼入ってんなあ。んー?」
 出発日って。
「…そんなの急いで決めたって…すぐ行ける訳じゃないんだから、今決めなくたっていいだろ。明日だって明後日だって別に」
 子供のようにはしゃいで紙片を指でめくって、うんうん唸っているザックスの背中を、クラウドは顔を赤くして自分の唇を手の甲でごしごしと擦った。ザックスのコミュニケーションの取り方はいつもストレートすぎて、クラウドはいつまでたっても慣れることができない。どうにも照れて仕方がない。
 振り向いたザックスは目をきらきらさせて実に活き活きとしていた。
「ダメ!ちゃんと計画立てとかないと、後でお前『やっぱり仕事入ったから行けない』とか言い出しそうだし」
「俺はそんなに信用ないのか!」
「お、来月の五日以降は仕事入ってないかな?おし、じゃあ五日に決めよう!吉日大安だしいい感じじゃん」
「無視すんな!!」
 ザックスは机の上に置いてあった赤いフェルトペンで、ぐりぐりと勝手にカレンダー上の『5』の文字の上を塗りつぶし、更に周囲をぎざぎざとした模様で囲んだ。
 にんまりと笑う。
「決まりな!!」
「…………」
 その笑みを見た瞬間、一日の疲れがどっとクラウドに襲いかかって、身体を重くした。
 なんかもうどうにでもなれ、な気分である。

 かくして旅行の出発日は決まったのだった。





「………ちなみに訊くけど、ザックス」
「んー?」
「二ヶ月…という期間の長さに大いに疑問があるんだけど、一体どこに旅行行きたいんだ?お決まりのコスタ・デル・ソルでバカンス気分満喫したいとか?」
「そうだなあ。そこも行きたいかなぁ」
「? “も”?」
「ゴンガガにも久しぶりに帰りたいな。お前を父ちゃんと母ちゃんに会わせたいし」
 ザックスの両親に実はクラウドはそうとは知らずに会ったことがあったが、それよりも会わせてどうするつもりなんだ、ということのほうが気になった。
「もー、この際だから思いっきりぱーっと行こうぜ、クラウド」
「ぱーっとって…」

「二人で世界をぐる〜り一周するんだ」

 ゴン。
 すぐ横の壁にクラウドは額をぶつけた。疲労がピークになってクラウドは今度こそ倒れそうになった。
 そんな旅に出たら本当に当分帰ってこれそうにない…。





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