63 誤魔化す





「……?」
 深夜にもなろうかという時間。
 ベッドの隣にごそごそと他人が入り込んでくる気配がしてザックスは目を覚ました。
 傍らを見やれば、タオルケットの下から淡い色の頭髪が先端だけ覗いていて、もぞもぞと動いて自分の肩口に近づいてくる。ザックスの体にぴたりと温もりがくっつくと、そのまま動かなくなった。
 すぐにでも瞼が落ちそうな眠気の誘惑と戦いながら目を細めてザックスは笑うと、真夜中の訪問者の体にタオルケットの上から手を回して優しく抱きしめた。
「…クラウド、どうした?」
 首を動かして、はみ出た髪の毛にキスをする。クラウドは何も言わずに今度はザックスの体に腕を回して抱きついてきた。
「なんだよ、怖い夢でも見たのか」
 彼が自分から甘えるように手を伸ばしてくるのは非常に珍しかった。
 クラウドは自分の塒である一般兵の宿舎で今夜は寝ているはずだった。
 実は数時間前、久しぶりにふたりの時間が合い、ともにした夕食後、俺の家に泊まっていけよとザックスが誘ったのを、明日は朝早くの出社なのだと言ってクラウドは帰っていったのだ。
 なのに今ここにいるということは、こんな遅い時間にひとりで夜道を歩いてやってきたということだろうか。この家の合い鍵は渡してあるが、それを自ら進んでクラウドが使うのも珍しい…というか初めてのことかもしれない。
 普段なら絶対こんなことをクラウドはしないのに…と思い至って、普段なら、というところにザックスはようやく引っかかりを覚える。時間に関係なく、ここに駆けつけたくなるほどの何かがクラウドの身にあったということなのではないか…?
「おい、何かあったのか、クラウド」
 急にザックスは不安になってきた。眠気も吹っ飛んだ。
 タオルケットに隠れたクラウドの様子を確認したくて、引っ張り上げようとするが、クラウドはザックスの体にぎゅっとしがみついたまま離れない。
 胸元からくぐもった小さな声が聞こえた。
「…ごめん。何でもない…けど朝まで一緒に寝させて」
「ホントになんでもないのか?」
「…うん……」
 絶対何かあったのだとザックスは確信したが、これ以上クラウドを問いつめても今は話さないだろうと判断し、ザックスはとりあえずクラウドを抱きしめて眠ることにした。
 今のクラウドからは、取り乱しているとか焦っているとかいうような、おかしな様子は別段見られないから、たぶん大丈夫だろう。何かあったのは間違いようがないが…事情を聞き出すのは夜が明けてからでも遅くはないとザックスは勝手に判断する。
 体を密着させて眠るには、まだ気温が高い季節のような気もしたが、クラウドが文句を言わないのをいいことに、ザックスは愛しい温もりに手を伸ばして自分からも抱きしめる。
「…じゃあおやすみ、クラウド」
「…うん、おやすみ…」
 部屋の中は再び静かになった。
 ほどなくして、ふたりの健やかな寝息が部屋に響きだした。


*


 清々しい天気の朝だったが、クラウドの気持ちは追いつめられていた。
 目覚めてからザックスは知ったのだが、クラウドはTシャツにハーフパンツ(しかもパジャマ代わりの)、スニーカーという格好で、片道30分という道のりを夜中にひょこひょこひとりで歩いてやってきたというのだ。
「Tシャツの上にシャツ羽織ってきたもん」
 とクラウドは反論したが、その白くて細い足(膝から下の部分だけなのだが)を惜しげもなく外気にさらして、人目に触れたかもしれないということが、ザックスにとっては大問題なのだ。
「そういうときは俺を呼べ! バイクで迎えに行くから!」
「だって時間遅かったし、もう寝てると思って…」
「寝てたよ。でもおまえが俺を必要だって言うんなら飛んでく。起きる。当たり前だろ」
「…俺はそういうのは…いやだ」
 クラウドは、一度自分の部屋に帰って支度をしないと仕事には行けないので、眠い目をこすりながら頑張って早く起き出した。
 明るい中、来たときの格好のままではさすがに恥ずかしくて帰れないので、仕方なくザックスの服を借りることにする。
 袖を通すと少しだぶつくシャツや、ウェストや裾の余るズボンがクラウドには面白くないが、それはもう見た目からして差は明らかなことなので今更だ。しかし分かっていても悔しいのが男心。いつかもっともっと逞しくなってやるとクラウドは内心密かに誓う。
 だが今はそんなことよりも、目の前の男の追求をどうやって交わそうかと、そればかりで頭がいっぱいになっていた。
 クラウドにつきあって早く起きたザックスは、これぞ男の料理と言わんばかりの大雑把な二人分の手作り朝食をテーブルに並べ、クラウドの向かいの椅子に座ってじっとこちらを見ていた。
「…で? 昨夜、一体何があったんだ?」
「な…何がって、何?」
「何かあったから俺のとこに来たんだろ」
「…何のこと? 何もないよ?」
「ここに逃げ込んでくるくらいの深刻なことか?」
 ザックスは至極真面目顔だ。本当にクラウドのことを心配しているのだということが分かる。
 何の前置きもなく、いきなり夜遅くに彼の家に行ってベッドに忍び込んだ昨夜の自分の所業を思い返すと、クラウドは何ともいたたまれない気持ちになる。
 なぜそんなことを…と今なら思うのだが、他に行くあてなどなかったし、それもこれも全てアレのせいだ。
 でもアレのせいだとザックスに明かすのは、なんとなく恥ずかしい。
 そもそもアレは一体何なのだ。
「クラウド。俺の目を見てちゃんと話せ」
 これじゃあ、せっかく用意してくれた食事も喉を通らないし、味も分からない…。
「…ザックスが言ってた通り、嫌な夢見て急に怖くなって、それで」
「どんな夢だ?」
「それは……」
「おまえは嘘をつくとすぐ分かる。俺は誤魔化されない」
「う…」
 クラウドは泣きたくなった。
 そうだ。ザックスにはみんな知られてしまっている。小手先のつまらない嘘でどんなに取り繕おうとしたって無駄だろう。見抜かれてしまう。
 覚悟を決めてクラウドは顔を上げた。
「…あの、俺、昨夜は早く寝て、でも夜、喉が渇いて目が覚めて」 
 ザックスは静かにクラウドの話を聞いている。
「何か飲みたかったんだけど、切らしてて、仕方ないから部屋を出て、1階まで降りて自販で何か買おうと思って…」
「誰かに会ったのか?」
「え? ううん。誰にも…。けど、自販機の横で……」
 それきりクラウドは口を閉ざしてしまう。
 誰かに会ったわけでもないというのなら、クラウドが何を言い淀んでいるのかザックスには見当もつかなかった。
 クラウドがなかなか言わないから、待っている間、ザックスはひとりでぐるぐると頭の中で想像を膨らます。その中でひとつ、突拍子もないのが浮かんだ。深夜のフロアで、誰もいなくて、静かで暗い…。
「あ、もしかして人じゃないモンに遭っちまったとか」
「え…? ヒトじゃないもの…?」
「だから、ユーレイとか。自販と壁の間のこーんな狭いスペースに人がいて、じっとこっちを見てて目があっちまった!とか、そんなの」
「え、ザックスってそういうの信じるタイプ?」
「い、いや、特には。何となく思いついただけ」
「やだ、そういうのが宿舎に出るっていう噂がホントにあるのかと思ったじゃないか」
「クラウドは信じてんの?」
「わ…わかんない」
「俺も見たことない」
「うん、俺も」
「……」
「……」
「…で? 実際は何?」
 ザックスが身を乗り出す。
 いらない口を挟んで話を脱線させたザックスのおかげか、いい具合にちょっとクラウドは気が抜けて、ためらう素振りは相変わらずだったがやっと話しだした。
「……………黒いのが」
「黒い?」
「適当に水でも買おうと思ったら、な…何かが横から俺に向かって飛んできて、驚いて振り払ったら、地面にぽとって落ちて…」
 ザックスが片眉を上げた。
 なおもクラウドは続ける。
「落ちたら、すごい速さでさささって暗闇の中に消えていった…」
 …ああ。それは、アレだ。
「…ねえ、あれ何?」
 夏場によく部屋の中や水場とかで見かける、太古の昔から生きているしぶとい生命力を持つ、あの…。
「俺初めて見た。結構大きくて羽がつやつやしてた…。…昆虫?」
「そっか。おまえ、ゴキブリ見るの初めてだったのか。確かにあれは北のほうの寒い土地にはいないって聞いたことがある」
 ゴキブリ。
 クラウドは復唱するように口の中でつぶやいてから、興奮した声を上げた。
「うそっ! あれがゴキブリなの? 聞いたことがある。俺、でも、足の動きとか感触が気持ち悪くて、びっくりして、宿舎を飛び出しちゃって、それで戻るのもなんか怖くて…」

 つまり、ゴキブリに驚いてザックスの家に逃げ込んで来たという。
 かわいいところがあるじゃないかとザックスは内心にまにまだ。
 これを利用して「ここにはアレがいっぱいいるぞ。これからは俺がヤツを退治してやるから、俺と一緒に暮らさないか」とかいうプロポーズはクラウドに有効だろうかと本気で考えるザックスなのだった。



「…ちなみに、ヤツはどこに向かって飛んできたんだ? さっき感触が気持ち悪かったとか言ってたけど」
 玄関までクラウドを見送りに行って、腕の中にすっぽりと小柄なクラウドの体を抱きしめながら、いってらっしゃいのキスを唇にする前に何となくザックスは聞いてみたのだが、クラウドはそのときのことを思い出したのか、思い切り不快そうな顔になった。
「…顔。ほっぺたにとまって、口の方に…、あの這い回る感じは二度と思い出したくない。なんで突進してきたんだろ」
 今まさに塞ごうとしている、この唇に…。
 しかしザックスはそんなことは全然気にしなかった。
 ザックスにとって、それは気にするのに値することではないからだ。
 なぜなら、彼の故郷であるゴンガガでは、その虫を貴重な食材として――――(以下自主規制)。





end.