22 躊躇う





 昨夜彼と喧嘩した。
 衝突の理由は、本当に些細なことで、他人から見たらくだらないと言われそうなことだったが、どうにもクラウドは腹が立って我慢が出来ず、家を飛び出してその足で馴染みの店セブンスヘブンへと直行した。
 ひとりでカウンター席の隅に座り、イライラを飲み込むように黙々と杯を重ねているうちに眠ってしまったらしく、次に気がついたときには窓の外は眩しい日の光に満ちていた。居住スペースである建物の階上から降りてきた店の主人である幼馴染みに「おはよう、よく眠れた?」なんて嫌味交じりの苦笑とともに声をかけられた。
 クラウドは肩にかけられていた毛布をたたんで隣の椅子の上に置いてから、額に手を当てた。昨夜の酒がまだ少し残っているようで頭が重い。
 彼女にいらぬ世話をかけてしまったという気まずさから頭が下がり、俯くと深く息を吐き出した。
 …いい年をして一体自分は何をやっているのだろう。

「今朝はちょっと気温が下がってるみたい。体冷えてない? 温かい飲み物のほうがいいかしら」
「…大丈夫だ」
 彼女から手渡されたコップを礼を言って受け取る。
 コップに満たされていた水を喉に流し込むと内臓にひんやりとしみわたり、体の内側のもやもやしていたものが幾分浄化されたような気がした。
 中身を半分ほど残してコップを置き、クラウドはテーブルに頬杖をついた。
 その指先がひんやりとした硬いものに触れる。
 ピアスだった。
 クラウドの耳元で小さなシルバーが窓の外からの光を受け止めて鈍く輝いている。それは昨夜自分が喧嘩した相手から数年前にプレゼントされたものだった。
「…」
 昨夜のやりとりを思い出してまたむかむかと腹が立ってきたクラウドは、ピアスを耳から外し、指でつまんだそれを睨むと目の前のコップの上まで持っていき、躊躇いもなく指を開いた。当然支えるもののなくなったピアスは落下する。
 小さく水しぶきがあがった。
「……」
 クラウドはコップの底に沈んだピアスから目をそらし、固くまぶたを閉じた。
 あんな男、あんな男、あんな男、最低だ、もう顔も見たくない。
 彼を思い出すものなんか見たくない。
 身に着けていたくない。
 彼との付き合いは年月だけを見ても決して短いとは言えない。
 その間にいろいろなことがあった。
 自分たちは性格が対極で、そういう意味では相性がよいとは言えず、昔から衝突することもしばしばあった。そのうちのほとんどは、実年齢でも人間的にも自分より大人である彼のほうが折れてくれて何とか丸くおさまるのだが、彼だって人間だ。いくら心が広いと言ったって、虫の居所が悪いときだってあるだろうし、なかなか素直になれず意地を張るばかりのかわいげのないクラウドにしびれを切らすことがあってもおかしくはない。昨夜の、お互い引くに引けなくなって、大喧嘩に発展してしまったりするようなことだって、当然ある。
 いつもはどんなに酷い喧嘩でも時間と距離をしばらく置いたら自然に頭も冷え、ふたりはどちらからともなく歩み寄り、仲が修復するのだが、今回はどうだろうか。今回も、と言えないくらい酷い言い合いだった。売り言葉に買い言葉で彼に心無い言葉も投げつけてしまった。

「…もう何度もこんなことを繰り返してるような気がする…」
 その度につらい思いをして、苦しくなって。
 いっそのこと、積もった彼との思い出たちを自分の中から消し去ることができたら、どんなに心が休まるだろうと詮無いことを考えてみる…。

 クラウドはコップを手に持ち軽く揺らした。
 水がたぷんと動くとシルバーの輝きも微かに水底を転がった。
 あんな男に出会わなければよかった。
 会わなければこんなに行き場のない思いも醜い自分も知ることはなかったのに…。
 こんなもの…こんなもの…。

「朝から溜息なんて辛気臭いわね」
 幼馴染みは昔から変わらない笑顔を自分に向けてくれる。見守ってくれている。
 例えば彼ではなく、彼女を選んでいたなら、自分はどんな今を生きていただろうと想像する。
 それを頭の中で描くのは自分でも驚くほどに容易いことだったが、それでもやっぱり自分はこの先も――何度でも彼を選ぶのだろう。
 つらくても、どんなに悩んでも、最後には彼のもとへと還っていった、今までの自分を思い返してそう思う。

 コップの中身を見つめる。
 捨てればたぶん楽になれる。
 人を好きになるということは、幸せで綺麗で尊い想いばかりでは満たされていない。
 自分では許容しがたいどろどろとした想いも時には意識させられる。
 醜い自分との対面を残酷に突きつけられることもある。
 どうしても相容れない相手との溝に絶望したくなる時だってある。
 それらと決別したければ、捨てればいい。手放せばいい。
 彼を想うことをやめればいい。
 けれど―――けれど自分は。

「昨夜は分かりやすい自棄酒だったものね。私でいいなら相談に乗るわよ。どうせザックスとのことでしょう?」
 その前に何か食べる?と問う彼女にクラウドは首を横に振る。
「珍しいわね、喧嘩でもした?」
 クラウドと彼が喧嘩するのは他人からしたら「珍しい」という認識なのだろうか。
 当の本人からしたらしょっちゅうのことだと思っているのだが。
「まあ喧嘩するほど仲がいいって言うしね」
 少なくとも自分たちにはそれは当てはまらないような気がする。
「…これ以上あいつと一緒にやっていく自信がない…」
 クラウドがぽつりと呟くと彼女は一瞬目を丸くして笑った。
「またそんなことを言ってるの」
「またってどういう…」
「だって何ヶ月か前にクラウド同じこと言ってた」
 そうだっただろうか。
「俺達もうダメだーって深刻そうに言ってたくせに、数日後には何もなかったみたいにモトサヤにおさまってたよね」
「……」
 …ああ、まあ確かにそんなこともあったような気がする。
 クラウドが家を飛び出しても、狭い街の中、またクラウドも行動範囲が思いのほか狭いこともあって、馴染みのこの店に転がりこむことが多く、酒の助けを借りて彼女に愚痴をこぼしたり相談に乗ってもらうことが多かったかもしれない。
「なんかあなたたちを見てると面白い」
「おもしろい…?」
「ザックスって押しが強くて、ぐいぐいクラウドのこと引っ張ったり押したりして、自分のペースに巻き込んでて、クラウドはそれに振り回されてるっていうイメージがあるんだけど、実際は逆よね」
 逆、とは…。
「むしろ合わせてるのはザックスのほうじゃない? クラウドの頑なで素直じゃないところをうまくザックスがフォローしつつ、彼が先手を打って自分から折れることが多いんじゃないかなあって」
「……」
 その言いようでは、クラウドのほうに問題があって、悪いのは全部自分だと言われている気分になる。
「そんなことはない! あいつの勝手に振り回されてるのは俺のほうだ。どんなに俺が我慢しているかティファにはわからない…!」
 彼女の瞳がすっと細められた。
「ええ、わからないわね。我慢、ね。そう、じっと我慢してるなんて立派ね。でも、あなたはそうやって我慢してるだけなんでしょう、彼に何も言わずに」
「…っ」
 クラウドははっとして息をのんだ。
「何かごたごたがあっても、クラウドは自分が何も言わなければいつかは波がおさまると思ってる。でもね、そうやって我慢して自分の中に何でも溜め込んで…、クラウドの考えてること、分かるよ。自分が我慢すれば他人との関係はうまくいくと思ってるんだよね」
 我慢すれば…、そうなんだろうか。そうかもしれない。
 衝突したくないから。
 嫌われたくない…そう、相手にこれ以上嫌われたくないから。
 特に彼とは、事なかれ主義を言い訳にして、二人の間になるべく波風が立たないようにといつも気を遣っている。自分さえ我慢すれば全てうまく事が運ぶと信じて。
「でもそういうの、ザックスは望んでるのかな」
「ザックスが…望んでいること…」
 復唱したクラウドに彼女は頷いた。
「話してほしいって、クラウドに本音でぶつかってほしいって、思ってるんじゃないかな」
 彼女のその言葉は、昨夜彼から投げかけられた言葉をクラウドに思い出させた。
『言いたいことがあるんならはっきり言えよ。なんでいつも俺をそういう責めるみたいな目で見るくせに何も言わないんだ』
 あのとき、彼の苛立ちが言動のあちこちから伺えて、こちらこそ彼の目に責められているような気がして胸が痛かった。
 彼を前にすると、喉の奥に詰まったように出てこない言葉。自分ではそれらがどんな言葉なのかわかっている。でも形にするのは怖い。それらはとても自分勝手なもので、口に出せば彼を幻滅させるかもしれないから…そう、自分は彼に、ザックスに嫌われたくないと思っている。

「あなたたちもう何年一緒にいるのよ」
 溜息混じりに彼女が言う。
 クラウドは頭を上げることが出来なかった。
 コップの中のピアスをじっと見つめる。
 捨てようと思った。
 彼も、思い出も、ピアスごと手放そうと思った。
 でもやっぱり自分は捨てられないんだろう…。
 ピアスも、思い出も、胸の奥深くにずっと居座っている、時には自分さえも裏切るどうしようもない想いも。
 ピアスを自分にプレゼントしてくれたときの彼の顔を思い出す。そのときの自分の気持ちを思い出す。あたたかかったあの瞬間、あの時間を。
「……」
 コップを両手で包むように握りしめ、うなだれた額に押し当てた。
 ひやりとした冷たさが指先から全身に伝わり、脳の奥をちりちりと刺激する。
 捨てようとして、けれど躊躇うのはあのあたたかさを覚えているからだ。
 嫌いだと口先でどんなに言っても、きっと自分は形あるこのピアスさえ捨てられない。
 それは、やっぱりどんな形でも彼とまだ繋がっていたいからだ。
 それの意味するところは、つまり。

 …どうしようもないな。

 全く笑えない。
 けれどクラウドの口元には知らず笑みがこぼれていた。

 …帰るか。
 そう思い、クラウドがコップをテーブルに置いたところで、ティファが不意に顔を上げた。どこか何かを面白がっているような表情だ。
「…クラウド、あなたもしかして昨日のお酒が抜けてなくて調子悪い?」
「?」
 彼女の言わんとしていることがわからなくて、クラウドは首を傾げた。
「だってこんなに分かりやすい気配に気づかないなんて」
 水に濡れた手を布巾で拭いながらティファは店のドアを顎で示す。
 振り向いたクラウドははっとして椅子から立ち上がった。
 ティファを振り返りつつ、自分の後方のドアを気にして急に落ち着かない様子になる。壁一枚隔てた向こう側にたたずむ彼の気配にやっとクラウドも気づいたらしい。
 そわそわしている彼にティファは苦笑して肩をすくめた。
「ほら、行った行った。さっさと仲直りしちゃいないさい。あと素直に、ね。怖がらないで」
 クラウドはその物言いに不満があるのか少しだけ眉を寄せたが、その表情はどこか照れくさそうにも見えた。
「…ティファは母さんみたいだな」
「失礼ね」
 でもあながち間違いではない。
 今では養い子をふたりも育てているのだから、母親にだってなれる。
「…ありがとう」
 クラウドは小さく頭を下げるとドアに向かう。そうしてドアが閉まるまで振り向かなかった。


*


 彼の足取りにもう躊躇いはなかった。
 ドアの向こうへと真っ直ぐにクラウドの姿は消えていく。
 その後、ドアの向こうで彼ともうひとり、男の話し声がぼそぼそと聞こえる。何を話しているかまではわからなかった。ほどなくしてそれも聞こえなくなった。
 窓の向こうに一瞬だけ見えた、並んで歩く二人の姿。朝の光に包まれて優しくにじんでいた。
 ティファはそれを見て、今更ながら甘いような切ないような複雑な気持ちになった。
 その男は、ザックス・フェアは、気配を消すことなんて造作もなく出来る男だ。なのにわざとらしいぐらいの気配を振りまいて店の前までやってきて、でも中までは入ってこなかった。入る勇気がなかったのか、それともクラウドからの出方を探りつつの行動か…彼は、相手との駆け引きを巧みにコントロールするところがあるから、やはりクラウドを動かしたかったのかもしれない。もしかすると彼のことだから案外、喧嘩も計算の内なのかもしれないとも思う。
 想いは同じなのに、未だにすれちがったり本音をぶつけ合えない不器用な二人だ。その関係を改善したいと望んでいるのは何もザックスのほうばかりではないだろう。
 まあいずれにせよ、ふたりのことはふたりにしかわからないことだ。
 うまく収まるところに収まってくれたらいい。周囲に迷惑をかけない程度に。
 
 一息ついてから、クラウドに出したコップに手を伸ばした。片づけようと、残っていた中身を流しに捨てようとして、手が止まる。
 水の中にピアスが沈んでいた。
「…お客さぁん、大事な忘れ物ですよぉ」
 ティファはその小さなかたまりを水の中で遊ばせ、少しおどけた口調で今はもういないいつまでたっても手のかかる幼なじみに向けて笑った。
 このまま気づかないフリをしてピアスを捨ててしまったらクラウドはどんな顔をするだろうと意地悪な想像をして、何でもないという風に意地を張りつつも泣きそうになっている彼を容易に想像できたので、それはやめておくことにした。



fin.