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おはよう
「………、ぅ……」
うっすらと目を開けると、あたたかで柔らかな光が視界に飛び込んできた。
ザックスは白いシーツの上で身じろぎ、傍らのぬくもりを求めて腕を伸ばした。しかしいつもならばすぐに手が届くそれは掴まえられなかった。
「……?」
閉じてしまった瞼をもう一度持ち上げてからザックスは視線を動かした。
「…ラウド?」
傍らにあるべき愛しいものの姿をそこに見つけられず、ザックスはのそりと身体を起こす。
ベッドの上、一人で目が覚めたことにザックスは遅まきながら気がついた。
ぼさぼさに垂れ下がり、視界を邪魔している髪の毛に指を通して後ろにかき上げながら唸る。起き抜けで頭がまだしゃんと活動していない。
ザックスがベッドに潜り込んだのは深夜、というより日付が変わって大分たってからの早朝と言っても差しつかえのない時間だった。眠っている彼の横に滑り込み、腕にしかと抱いて眠りに落ちたはずだった。なのに。
「………」
とりあえずザックスは身を乗り出して、ベッドの下の床を覗いてみた。寝相はいいほうのクラウドだったが、もしかしたら…と思っての確認だ。しかしやはりそこには落ちていなかった。
あくびをしてベッドから足を下ろす。足裏に伝わるひやりとした感触がザックスの眠気を少し遠ざけた。
あいつは先に起きたのだろうか。そもそも今は一体何時だ。
ぺたぺたと素足で歩きながら寝室のドアをくぐる。
「クラウド…?」
リビングルームに出て彼の姿を探すが見つけられなかった。
キッチン、バス、トイレ…人の気配はまるで感じない。
乱れた後ろ髪をがしがしと指の腹で雑にかきながら、ザックスは壁にかかっている時計を見、またひとつ唸った。それは昼を少し過ぎた頃を示していて、それではもう彼が部屋にいる訳がない。とうに仕事に出かけている時間だった。
(…どんだけ俺、ぐっすり眠ってたんだよ…)
すぐ隣でクラウドが置きだす気配も感じ取れないくらい深く眠っていたということか。普段の自分ならば考えられないくらい間抜けなことだとザックスは思う。
(ああクソ、起こしてくれりゃあいいのに)
クラウドが相手だからこそ自分が気を許しているのだということをザックスは自覚していたが、決して短いとは言えない期間の遠征からやっと帰ってきて、久しぶりに昨夜はこの部屋に戻ったのだ。
クラウドの寝顔は闇夜の中でわずかの間眺めてはいたが、ただいまの挨拶もしていなければ、彼の腕に抱き締め返してももらっていない。
はっきり言ってめちゃくちゃ不満というか帰ってきたという気がしないというか、とにかくすっきりしない気持ちのザックスなのだった。
…まあ、だからと言って、クラウドを今すぐ抱き締めたい、会いたいという欲求があるからといって、迷惑や邪魔になると分かっているのに彼の職場に今から押しかてやろうなんて思わなかったし、でも遠くからこっそり彼の姿を見るくらいなら許されるかな、とも考えるが―――そう考えたところで、これから出社して報告書をまとめて提出しなければならないという己の今日の予定を思い出したザックスだった。期限を守れとラザード統括に釘を刺されている(ザックスは報告書を書くのが苦手で(面倒で)、よく提出期限を破っては上からチクチク突かれているのだった)。
(…とりあえず顔でも洗ってしゃんとすっか…)
一日の始まりのために、洗面所へ向かおうと踵をかえす。その視線の先でザックスはそれに気がついた。
洗面所へと続くドアのその取っ手にタオルがかけられていた。
ザックスはそれを手にとって、パイル地を覗き込むように顔に近づけてしげしげと眺めた。
白く、洗い立ての清潔な香りがするタオルだった。
(んー…、顔洗ったらこれで拭けってことか?)
ザックスのためにと、クラウドが準備してくれたのだろうか。
冷えた水で顔を洗い、タオルで顔を拭き(その際、クラウドのにおいが残っているような気がして、顔に押し付けたタオルの匂いを腹いっぱいに吸い込んだ)頭がすっきりとしてきたところでにわかに空腹を覚えたザックスは、キッチンへと向かった。洗顔の際に指先に引っかかった髭の手入れはもう少し後でもいいだろう。
しかしその途中で今度はダイニングテーブルに並べられた皿を見つけ、ザックスは足を止めた。
いつもザックスが座る席の前に、ラップのかかった皿が置いてあった。その上にはサラダと目玉焼きと果実。皿のすぐ脇に置いてあった紙袋を覗くとチーズのかかったロールパンとスライスされた食パンが入っていた。テーブルの隅にはコンセントが刺さったままのトースター。
朝食の用意が出来ている。
「…あいつが用意してくれたのか…?」
彼以外に用意してくれる人はいないから、多分そうなのだろう。
ザックスは椅子にそのまま座ろうとして、ふと空のコップに気がつき、それを手にして今度こそキッチンに向かった。
飲み物は流石にセルフサービスだ。ミルクにしようかフルーツのミックスジュースにしようか迷った末に、ジュースを選んだ。ミルクの残量が少ないようなので、近いうちに買い足さないといけないなと思う。ザックス自身は大してその白い飲み物の存在に重きをおいてはいないのだが、背を伸ばしたいというクラウドが頑張って苦手だといいながらもそれを(ひっそりと)飲んでいるのを知っているから、彼の飲む分を(それとなく)いつも絶やさないように冷蔵庫の中に常備している。
飲み物を用意して席に着く。
ラップを外して皿の上に並んでいるものを改めて眺めた。
不器用に葉をちぎられて置いてあるだけのサラダ。隣には赤くて小さいトマトがころんと転がっている。目玉焼きは形がいびつで少し端が焦げついていて、白身の端に引っかかっているものは、もしかしたら砕けた殻の破片かもしれない。
ザックスは顔をほころばせた。
(あいつ、朝食はいつも面倒臭がって自分じゃ作んないくせに)
ともすれば、クラウドは何も食べずに部屋を出て仕事に向かうこともある。
得意不得意もあって、二人でいるときはもっぱらザックスが食事の支度をしている。クラウドが自ら進んで料理をしているところなんて余り見た事がなかった。
そんな彼が、今朝どんな顔をして、どんなことを思いながら、この食事を用意しようと思ってくれたのだろうか。
(それも、多分俺のために、だよな)
うぬぼれではないだろう。
ザックスは顔を上げて、正面の無人の席に目をやった。
先程キッチンに行ったときに、シンクの中に放り込んだまま放って置かれている皿やコップに気がついた。クラウドも朝の忙しい時間の中、自分で用意した朝食をそこに座って一人で食べたのだ。
(クラウド、トマト嫌いなのに食べたのかな)
嫌いで食べたくないなら自分の皿には置かなければよいのに、用意している時点ではクラウドはきっとそんなことには気がまわらなくて、生真面目に同じ量を同じ数だけ食材を準備し、並べた二つの皿に同じように盛り付けたに違いない。クラウドのそんな姿がザックスは目の裏に容易く描き出せた。
(食べてるうちにこいつに気がついて、さ)
顔をしかめて、向こう側にある手つかずのザックスの皿の上を眺めてはまた自分の皿を見つめ、嫌いなトマトをそちらに移してしまおうかどうしようか迷って。今はザックスはいないんだし、見られてないんだし、こっそり向こうの皿に移しておけば、何の疑問も持たずに後でザックスが食べてくれるだろう。言わなければ分からない、分からないけれど…なんてぐるぐるぐるぐるクラウドは考えて。
『嫌いなもんだってちゃんと食わねぇとおっきくなれねぇぞ』
いつだったか、ザックスが茶化してクラウドに言った言葉を思い出したりしたかもしれない。
あの時は「そんな言い方子供じゃないんだから」とクラウドは頬をふくらませて不機嫌そうに言っていたものだが、いつだってザックスが用意したものは、嫌いな物だってどんなに口でブツブツ言ってても、最終的には残さずにクラウドは口に運んでいた。彼は態度と口はどうであれ、根っこは素直でかわいらしいのだ。クラウドのそういうところが、ザックスには愛しく感じてたまらない部分だ。
多分クラウドはしばらく赤いそれと難しい顔で睨めっこをした後、意を決してフォークを握り締めなおして…
「やべ…、勘弁してよ。頼むよ、クラウド」
本当に、本当にかわいらしい。
ザックスの脳裏には、目をぎゅっと瞑ったまま、泣きそうな顔でトマトをろくに咀嚼せずに飲み込むクラウドの姿が勝手に流れている。
何ともいえない笑いがこみ上げてきて、それは胸から溢れ、甘く全身に拡がり、ザックスをむずむずとした落ち着かない気分にさせた。
なんて、なんて愛しい存在なのだろう。
彼のことを頭に思い描くだけで、こんなにもひとつの感覚に支配されてしまう。
酩酊するように、ただ狂おしく痺れるような気持ちになる。
「俺、幸せだよなぁ…」
他人を想うことが、こんなにも甘くくすぐったい気持ちを自分に運んできてくれるだなんて、知らなかった。
他人が自分を想ってくれているということが、こんなに心を温かくしてくれるのだということも。
彼が教えてくれた。
「いただきます、クラウド」
ねばってよかったなあとザックスは思う。
数ヶ月前、クラウドに告白したときは、それはもう邪険にあしらわれたのだった。
『困るし。男とそういう付き合いをする気は全くないから、悪いけど諦めて』
ばっさりあっさりクラウドはザックスの想いをはねのけた。
それでもザックスは諦めずに、半ば嫌がらせのように彼に纏わりついた。
あの頃の自分は半ばストーカーだったかもしれないとザックスは思う。でもクラウドも全部が全部、ザックスのことを嫌がっているようには見えなかったし、ちょっとは脈があるかもしれないなあ…とその手応えを感じていたから引き下がらなかったのだ。少しでも勝算のある事柄なら端から放り出すザックスではない。
そしてあの時諦めずにねばったからこそ、今がある。こうして彼と同居にまでこぎつけた。同じベッドで眠るようになってからも相変わらずクラウドは、普段はどちらかといえば素っ気無いし甘いムードは平気で壊すしで、もう少しそれらしくしてくれてもいいのにとも思うのだが、時折今朝のように、態度で、行動で、無言のうちに不器用な愛情を見せてくれることがあり、それがザックスはとても嬉しい。
トースターにパンを投げ入れる。
今夜はどちらが先にこの部屋に帰ってくるだろう。
自分の帰宅時間が早いようなら、久しぶりに張り切って料理を作ろうか。いつもより気合いを入れて、一品ほど多く用意して。
クラウドは喜んでくれるかな。
おなかいっぱい食べた後は、いっぱいいっぱい抱き締めて。たくさんのキスをしよう。
その前に、まずは自分の用事を片付けないといけないけど。
まずは愛情のこもった朝食(時間的には昼食だけど)を食べ終えたら、シンクの中の食器を洗おう。
『今夜何が食いたい?』
彼にメールを書いて送って。返事が返ってくる確率は半々。…そういえば書き置きの類も見当たらないし、クラウドからメールが届いているかもしれない。あとで携帯電話をチェックをしておこう。
支度が出来たら出社してさっさと仕事を終わらせる。それも終わって時間があったらトレーニングルームに顔を出して…ああ、その前に医局に行って身体チェックを受けないといけないんだったけか。面倒臭いなぁ。
焼けたパンの上にサラダと目玉焼きを乗せる。
口を大きく開けてかぶりついた。
何の隠し味も、高級な食材を使っているわけでもない素朴な食事だけれど、彼が自分のために用意してくれたというだけで、それは物凄く特別なご馳走になるんだ。
「ん、おいしい」
やっぱり前言撤回。
顔を見たら食事より何より、まずは一番最初にクラウドのことを抱き締めよう。
そして噛み締めるんだ。帰ってきたって。
自分の居場所に、ただいま、ありがとうって。
きっと彼も抱き締め返してくれる。
かわいくないことを言う口は封じて。
ああ、早く夜になればいいのに。
トマトの青臭い酸味を舌の上で味わった後、ザックスは勢いよく椅子を立ち上がった。
あと半日したら彼に会える。だから今は。
明日の朝はちゃんと彼に「おはよう」と言えますように。
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